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第85話 混迷

 思いのほか静かだった元亀3年(1572年)の上半期が過ぎ、京を中心に活動しつつ時おり佐和山城の寄親・丹羽長秀のもとを訪れる生活を送っていた俺は、政務に忙しい日々を送っていた。


 その主な業務は大きく2つに分かれる。


 1つは朝廷や公家、寺社などとの権利関係に関する交渉事だった。


 平安時代末期以降、古代の律令国家のしくみが完全に崩れ、上記の支配階級たちは自分たちの権力を慕って寄進された土地を荘園と呼ばれる領地に組み入れていった。

 各国の国司などからの重税の取り立てにあえぐ民たちは有力者に土地を寄贈し、その傘下に入ることでいくらかその負担を軽減しようとし、有力者たちは自分の財産を増やすために積極的に荘園を獲得していく。

 古今東西を問わずよくある大土地支配の構図だ。


 しかし、時代が下がるにつれて武士の力が上昇し、ついにはそれまでの支配階級にとって代わる存在になると、荘園は横領されていくようになる。

 俺が従事している交渉事とは、荘園を奪われた貴族や寺社などの訴えを整理し、権利関係を調査し、訴人が正しく土地の所有者である場合には現在土地を占有している者に対して明け渡しや所有者との間に新たな代理人契約を結ぶよう上から指示された文書を発給する業務だ。


 これなどは本来は幕府が行うべき仕事であり、この政務を行うことが歴代将軍の権威と権力の源泉だったといっても過言ではない。

 となれば、この役目は現役将軍である足利義昭とそのスタッフである奉行衆がはたすべきなのだが、将軍家の分裂とそれに伴う内部抗争が長期化した結果、現在義昭が抱える奉行衆は質・量ともに不足している。

 つまり、幕府の奉行たちだけでは到底仕事が追いつかないため、否応なく政権の事実上ナンバーツーである織田信長が巻き込まれ、俺たち織田家のスタッフが関与することになっていたのだった。


 はっきり言って、この政務は心底骨が折れる仕事だ。


 何しろ、初期の荘園が成立したのは今から4百年以上前の話。

 それ以降、時代が下がるにつれて権利関係は段々と複雑になっていき、1つの村に複数の支配者がいることも珍しくない。

 戦乱の中で権利関係を示す文書がなくなった場合も多々あり、そうなると誰が正当な支配者なのか判断する材料がまったくないといったことも起こる。

 一番たちが悪いのは、権利を主張する文書がねつ造されることがあることだった。

 疑い出せばきりがなく、調査するだけで相当な労力を削がれるのだ。


 もう1つの主な仕事は、丹羽長秀の寄騎として行う街道整備の仕事だった。


 信長は自分の領国の関所を撤廃し、ヒトやモノの流れを活発化させようとしていた。

 ただ、陸上においてヒトやモノが実際に動くのは道の上だ。

 そのため、信長は京へ向かう道を幅広くまっすぐなものにつくりかえ、それだけでなく道の両側に旅人が休めるようにと樹を植えることまで指示していたから、なかなか大掛かりな工事が展開されていたのだった。

 もちろん、整備した道は軍用道路としても使用されるわけで、機動力を重視する信長にとって重要な事業だ。


 丹羽長秀という人は何をやらせてもそつがなく、信長は内政関係の仕事と言えば彼を好んで起用した。

 街道整備も当然のように長秀の仕事となり、その寄騎である俺にも仕事が割り振られることとなったのだ。


 結果、俺は京と近江を飛び回り、合間に諸国の情報収集・分析もする必要もあり、かなり忙しい日々を過ごすことになったのだった。

 現代で高校教師をしていたときも忙しかったが、出張が伴う分だけ今の方が忙しいように感じる。

 ヨシローが現代で就職していたコピー機販売会社はブラック企業と呼ばれていたが、戦国の織田家もたいがいだ。


(そう言えば、ヨシローは改姓してたな。羽柴秀吉か。史実通りと言えば史実通りやけど、ホンマに丹羽長秀と柴田勝家にあやかって両者の苗字から1字ずつもらうとはな。)


 今年に入り、秀吉から送られてきた手紙で俺は改姓のいきさつについて説明を受けていた。

 気の置けない俺には本音を語ってくれ、表向きは織田家を代表する譜代の重臣二人にあやかって改姓したとしているが、実際には秀吉が任された地域のすぐ後方の地を差配する2人に対してゴマをすったというのが本当のところらしい。


 秀吉は手紙のなかで度重なる浅井軍との戦いに苦労していることと、いつ朝倉軍と共同して大軍が押し寄せてくるかわからないことへの不安を吐露していて、有事の際には援軍をすぐ送ってもらえるよう丹羽・柴田の機嫌をとろうとしたようだ。

 最後に信長には何度も出馬をお願いしているが、俺からも進言してくれるよう頼むとの言葉で手紙は締めくくられていた。


(アイツも相当苦労しているみたいやな。寄騎の堀家の操縦に苦労してるって話も前に言ってたし。ま、浅井の攻撃をほぼ単独でしのぎきってるってだけでも相当すごいことやけど。)


 最近の浅井軍の攻勢はことごとく封じられており、それについて信長も秀吉の手腕がかなり大きいとの評価をくだしているようだ。

 秀吉の要請を受けて、俺は3月に京へ上って来た機会をとらえ、信長へ浅井への攻撃を進言し、信長から近々京での政務が片付きしだい浅井攻めを行うこと、その際には俺に従軍するようにとの命令を受けた。

 その時の会話の中で信長は秀吉の功績の大きさを語っていたのだ。


 だが、夏までに行われるだろうと思われた浅井攻めは2ヶ月以上ずれ込むことになった。

 信長が岐阜へ帰る前に起こった、南方での騒動に手を取られたためだった。

 信長は浅井攻めに使うはずだった人員・物資・時間を別の戦線に投入せざるを得なくなったのだ。


 元亀3年(1572年)4月、大和の松永久秀の兵が河内国へ侵攻し、畠山昭高の家臣・安見新七郎が守る交野城を攻めるため付城(敵城攻撃用の城砦)を築き、山口六郎四郎・奥田忠高ら3百人を入れた。

 松永軍の軍事行動は三好義継と連動したもので、義継は前年も畠山家とモメた経緯があった。


 さすがに2年続けての紛争は捨て置けぬとなり、三好・松永討伐の軍が出されることになった。

 先手となった織田軍は佐久間信盛、柴田勝家ら万余の大軍であり、後備えとして将軍・足利義昭が動員した畿内の武将たちの軍がこれに続いた。


 将軍も信長もどちらも出陣はせずに京へとどまったままだったが、織田軍が主体とは言え幕府軍が出張ってきたインパクトは大きかった。

 幕府軍はまっすぐ交野城の解囲へと向かい、松永軍が築いた砦へ肉薄し鹿垣を結んで逆包囲をしようとしたところ、松永の兵は折からの風雨をこれ幸いに逐電してしまった。


 幕府軍は手応えのない勝利を得ると同時に、敵を失った。

 三好義継は居城の河内国若江城へ、松永久秀も居城の大和国信貴山城へ、久秀の嫡男・久通は大和国多聞山城へとそれぞれ立てこもり、まったく出てくる気配がなくなった。

 そうこうするうちに義継や久秀からは畠山との戦に至った経緯について言い訳めいた内容が書かれた恭順の書状が届き、幕府軍は振り上げた拳を下ろすことができなくなったのだ。


 結局、織田軍の勢威と将軍の権威を見せつけるために大軍をかき集めて行われた遠征は、あっけなく終了してしまった。


 足利義昭は将軍の権威を示せたとご満悦で、義継らの恭順を受け入れ、うやむやな形で戦役が集結したからだった。

 確かに本気になれば万を超える大軍を動員できることを、三好・松永だけでなく近隣諸国へも見せつけることはできたが、紛争の原因を何ら解決することなく終わった。

 信長からすれば何ともやるせない話だが、将軍家をもり立てる立場こそ信長の権力の源泉である以上、どうにもできない。


 仕方なく、信長は5月19日まで京に残って政務を片付け、岐阜へと帰還していった。

 俺は佐和山城へ詰め、来たるべき浅井攻めに備えるようにとの指令を受けたため、途中まで同行することになり、しばらく街道や佐和山城下の整備にいそしむ生活に移った。

 そうして、次の戦機を待った。

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