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第75話 連衡

 元亀元年(1570年)9月13日夜、突如起こった銃声で俺は目が覚めた。

 銃声は俺が詰めている海老江の本陣から見て南東から南にかけての地域で断続的に聞こえてくる。

 それとともに、軍勢があげていると思われる「わぁーーー!」という喚声も響いてきた。


(どうやら敵襲らしいな。しかし、本陣からかなり遠いところで騒ぎになってるのが気になる。野田城から敵が出てきたわけではないようやが・・・?)


「ご注進!石山より敵襲。楼岸と川口の砦に鉄砲が打ち込まれ、一揆勢が攻め寄せている模様!!」


 ほどなく急を告げる使者が本陣に駆け込んできて、敵の襲撃について報告した。

 中立を保っていた石山本願寺が突然挙兵し、織田方の楼岸・川口両砦へ攻撃をかけてきたという。


 楼岸砦は石山の西約20町(約2.2km)、川口砦はそこからさらに西へ1里(約4km)ほどのところにある。

 どちらも石山からは地続きで、夜間でも攻撃をかけやすい場所だった。

 おそらく、本願寺軍は手近で攻めやすい織田方の砦を奇襲したのだろう。


「本願寺が?なぜじゃ。なぜ一向宗が我らを攻める?」


 信長をはじめ、本陣では誰もが驚き、いぶかしんだ。

 これまで織田家と石山本願寺を本山とする一向宗とは、敵対関係にあったことはない。

 領国支配や織田家の支配戦略において、一向宗は障害となったこともなかったし、むしろ友好的な関係を築けていたと思われていた。


 先年に足利義昭を擁して上洛した際には、本願寺は矢銭(軍事費)として5千貫を献納している。

 これは足利義昭と織田信長とは敵対しないという本願寺の意思表示であった。

 また、随分前のことになるが、信長が斎藤道三と初めて対面した正徳寺は一向宗の寺であり、信長や道三がその自治権を尊重していたからこそ会見の場として選ばれたのだ。


 信長からすればそれなりに仲良くやってきたと思っていた相手に、いきなり殴られたような感覚だろう。

 今回の野田・福島攻めにおいて、石山本願寺のすぐ近くに兵を配置することにはなったが、信長は特に問題はないと判断していた。

 だからこそ、当初は天王寺に構えていた本陣を段階的に敵城へ近いところへと移し、それによって石山本願寺から遠ざかるという警戒心の薄い布陣を行っていたのだ。


 とは言え、もはや戦端が開かれた以上、対処しなければならない。

 幸いにも攻められた両砦は本願寺軍の攻撃をしのぎ切り、砦を敵の手に渡すことはなかった。

 信長は各砦や陣地に使いを出して本願寺軍からの攻撃に備えるように促し、警戒を強めさせた。


 翌14日、本願寺軍は天満が森へと攻め寄せて来た。

 つい先日まで織田軍の本陣が置かれていた場所だ。

 兵糧などの物資が集積された重要基地であり、ここを奪われれば、織田軍の継戦能力は失われてしまう。


 信長もまたその危険性を認識し、川口砦から佐々成政ら一部の兵力を引き抜き、戦力を増強していた。

 成政らは砦に取りついた本願寺軍をたちまち撃退し、逃げる敵を追って川を渡った。


 だが、かすがい堤というところまで来ると、新手の敵と衝突し、激戦となった。


 歴戦の強者である織田軍に対し、本願寺軍はとにかく数が多い。

 質と量のせめぎ合いが激闘となるのは、自明の理だ。


 真っ先に敵へ突っ込んでいった佐々成政勢は奮戦したものの、成政自身が負傷したために退却した。

 代わって堤防の中央を前田利家勢が進み、左手からは野村越中、湯浅直宗、毛利長秀、兼松正吉らが先を争って突撃した。

 さらに右手からは中野一安が弓衆を率い、援護した。


 数で勝る本願寺軍も士気は高く、織田軍の猛攻にも容易には崩れない。

 毛利長秀と兼松正吉は協力して敵将・下間頼総の家来・長末新七郎という者を討ち取ったが、「兼松殿、首を取られよ。」「いやいや、それがしは合力したに過ぎませぬ。毛利様がお取りなされ。」などと譲り合ってるうちに、反撃してきた敵に押し戻されて、みすみす首をひとつ取り損ねた。

 また、ひとり突出した野村越中にいたっては、群がる敵に押し包まれ、討ち死にしてしまった。


 この日の戦いでは本願寺軍の攻撃は退けたが、だからといって敵軍を圧倒できたわけではない。

 集結が見えかけていた戦線は一気に拡大し、さらには予想以上に本願寺との戦いに苦戦しそうだとわかり、戦局は長期化する恐れが濃厚となった。

 また、本願寺との戦いに気を取られているうちに、三好三人衆の兵が城から突出して堤防を何箇所にも渡って決壊させたため、織田方の陣地や砦の多くが海水に浸かり、包囲作戦の続行に困難が生じていた。


(うーん、勝利目前までいってたのに、一気に戦線が膠着してしもたな。おまけに陣地が水浸しになったから、士気も落ちていく一方やろう。このままではいかんなぁ。本山が反織田になったということは、各国の一向宗の寺院も反織田になるということや。長期化すれば、本山の危機を救うと称して各地から援軍がやって来る可能性がある。どこかで見切りをつける必要があるんじゃ!?)


 将軍が前線にまで出張ってきた戦いをそう簡単に放り出すことはできない。

 しかし、そうは言っても利のない戦をいつまでも続けることもまたできない。

 おそらく信長も適当な時期をみて撤退することも考えはじめているはずだった。


 だが、その時期は思ったよりもずっと早くやって来た。


 ……………………………………………………………


「左衛門督様。よくぞお越し下さりました。かような大軍でご来援いただいたこと、これに勝る喜びがありましょうや!大変心強うござる。」


「いやいや、備前守殿の頼みとあれば断れぬ。ともに織田を討ち果たしましょうぞ!」


 ようやく重い腰を上げ、2万に迫る大軍を率いて近江入りした朝倉左衛門督義景を、浅井備前守長政はわざわざ領内の北端に近い木之本まで出迎えた。


(ふう・・・。ようやく来てくれたわ。それにしても、友軍の出陣を引き出すのにこれほどまでに骨を折らねばならぬとはな。)


 姉川の戦い後、さらに億劫になったのか、より出兵に消極的になった朝倉義景。

 長政は再三出馬を促していたが、梨のつぶてだった。


 しかし、先日届いた書状を添えて出兵依頼をしたところ、これまでの煮えきらぬ態度が嘘のようにスラスラと事が運んだのだ。

 長政の力だけではてこでも動かない様子だった朝倉が、たった1通の手紙で軽々と動く様には、何だか拍子抜けしないでもない。


(朝倉殿も随分と一向宗には手を焼いていたと見える。本願寺を敵に回さぬよう、わしもせいぜい気をつけねばなるまい。)


 長政は、背に何か冷たいものが走ったように感じた。

 実際、本願寺の教主・顕如から送られた一片の手紙が示した絶大な力には、それくらいの迫力があった。


 顕如は織田軍が三好三人衆らを討つと称して石山周辺へ進出してきたのを見て、信長の本当のねらいが石山本願寺であると考えたらしい。

 おそらくは先年の信長の朝倉攻めの振る舞いが、顕如の深層心理に大きく影響していたのだろう。

 信長は当初若狭の平定を標榜しながら、急に矛先を変えて越前へと攻め込んだ。

 この「だまし討ち」の手口を今回も発揮するとしたら、自分たち一向宗こそがその対象だと考え至ったようだ。


 手紙には各国の門徒にはすでに「法敵・織田信長」との対決を指示したこと、三好三人衆とも連絡を取り合って信長を摂津に釘付けにするつもりであることが書かれ、長政に助力を求めるとともに、最後に朝倉家との間を取り持ってくれるよう依頼する内容で結ばれていた。


 朝倉家と一向宗が長年の敵対関係にあることは、周知の事実だ。

 何しろ、朝倉家が畿内へ大規模な出兵を行えない最大の理由は、越前国内と隣国加賀の一向宗との紛争を抱えていることだ。

 そのことが手かせ足かせとなり、朝倉家の軍事行動に大きな制限を強いていたのだ。


 目の上のたんこぶだった存在が強力な味方になると知り、朝倉義景は狂喜せんばかりの反応を見せたという。

 もはや織田軍に勝ったと言わんばかりに自信に満ち溢れた態度に一変し、自ら軍を率いて出張ってきたのだった。


「さて、早速出陣するといたそうぞ!横山城を取り戻し、佐和山城の囲みを解くのじゃ!」


 義景が興奮した様子でまくし立てた。


「いや、横山や佐和山へは向かいませぬ。」


 あまりの変貌ぶりに半ばシラケながら、長政は冷静に言い放った。


「む?織田とは戦わぬと申されるか!?」


 義景は目を白黒させた。

 せっかく自分が大軍でやって来たのに、失地回復に動かないとはどういうことだろう。


「いや、織田とは戦いまする。ただ、それがしは京へ向かうべしと考えまする。物見の知らせでは、横山・佐和山に残し置きし敵の兵は存外多いとのこと。しかし、我らが京へ上るとなれば、邪魔になるのは宇佐山城くらいでござろう。京を奪えば、織田弾正忠は帰る地を失い、我らの勝利は疑いありませぬ。」


「なるほど。備前守殿のご慧眼、感服いたした。そういたそう。」


「では、左衛門督様には叡山へ助力を請うていただきたく。叡山がお味方となれば、京への門は開いたも同然でござる。」


 朝倉義景は比叡山延暦寺の大旦那(有力な檀家)だ。

 彼が協力要請をすれば、比叡山は一にも二にもなく味方になるだろう。

 京に隣接する戦略的重要性だけでなく、数千の僧兵という軍事力を期待できる延暦寺が味方に付けば、京の攻略は成ったも同然だった。


「わかり申した。さすがは備前守殿じゃ。これでこの戦、我らの勝利は疑いなしでござるな。」


 朝倉義景はすぐにも使者を派遣することを約束したうえで、全軍に出陣を命令した。

 号令一下、浅井・朝倉連合軍は湖西を南下しはじめた。

 まさに破竹の勢いで、さえぎる者などいないかのようだった。

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