第74話 野田・福島の戦い
元亀元年(1570年)8月20日、織田信長は馬廻り衆らからなる3千騎を引き連れ、岐阜を出立した。
目指すは摂津国野田・福島である。
1ヶ月ほど前から三好三人衆がこの地に城を取り立て、今では8千ほどの兵力になっているという。
三好軍を叩き、再び四国へ追い落とすことが今回の作戦目標だった。
俺も久しぶりに信長本軍と行動を共にすることになり、従軍していた。
翌21日、俺たちは近江国横山城へ入った。
言うまでもなく、木下藤吉郎秀吉が城番を務める城であった。
対浅井最前線となったこの城は、急ピッチで防衛体制の整備が行われ、何とか一段落ついたところだ。
「久しぶりやな、マタスケ。今回は摂津へ出陣らしいな?」
「うん。野田・福島って言ったら、環状線を思い出すな。あんまり直接行ったことない場所やったけど、何か懐かしい感じがするから不思議やわ。」
「せやな。俺らの現代の記憶って大阪で止まってるからな。気持ちはようわかるわ。」
秀吉が遠くを見るような目をしている。
たぶん俺も似たような顔つきをしていることだろう。
俺たちはどちらも大阪で就職し、大阪でサラリーマン生活を送っていた。
いまだに現代の平凡な人生がたまらなく懐かしく思うことがしばしばある。
「ところで、浅井軍の反撃はどうなん?」
「今のところは小競り合い程度かな。野村の合戦からまだ2ヶ月くらいしか経ってないし、向こうもあんまり大部隊を動かす気配はないな。」
お互い感傷的になりそうだったので、俺はやや強引に話題を変えた。
姉川の戦い後の浅井軍の動きも気になっていたこともある。
姉川で手痛い打撃を受け、浅井軍は軍勢の立て直しに力を注いでいるようだ。
この2ヶ月間は目立った軍事行動はないらしい。
「ただ、今年もあと1ヶ月もしたら稲の刈り入れも終わる。兵糧を確保できたら、越前から朝倉が大軍を出してくる可能性がある。本軍が摂津から戻ってくる前に、包囲されてる佐和山城を助けに来られると厄介や。この城も大勢で取り囲まれるやろ。」
「確かに。けど、横山や佐和山の周辺に5,6千の兵は残していくらしいから、守備に徹したら本軍が戻ってくるまで持ちこたえられるやろ。いざとなったら美濃へ後退して国境を固めるって手もあるし。」
「ま、浅井はともかく朝倉軍は腰が重いからな。少しの辛抱や。」
秀吉はニッコリと微笑み、心配ないと示してみせた。
翌日、俺たち織田軍は横山城を後にした。
その歩みはいつもの上洛のときとあまり変わらず、取り立てて早いものではなかった。
22日は長光寺で一泊し、京の本能寺へ入ったのは23日のことだった。
本能寺とは、あの「本能寺の変」で有名な本能寺だ。
現代では繁華街の中に埋もれるように建っている小さなお寺に過ぎないが、この当時は法華宗の中心地のひとつであり、びっくりするくらい巨大な伽藍が建っている。
敷地は1町(約120m)四方という広大さで、信長や小姓たち百人くらいが余裕で泊まれるだけのスペースがあった。
信長はここに2日間滞在し、将軍・足利義昭に拝謁して摂津表への出兵を報告した。
義昭にとって、三好三人衆は本国時の変で襲撃を受けて以来の仇敵だ。
ずいぶん喜んで信長をねぎらってくれただけでなく、自分も出陣して野田・福島を攻めるとまで言っていたらしい。
将軍の軍勢という大義名分を得た俺たち織田軍は、道中や京で合流した兵を合わせると4万を超える大軍となった。
もちろん、そのすべてが戦闘要員ではないが、少なくとも2万を超える人数が純粋な戦力として見積もることができた。
その盛況は畿内の人々に「織田軍健在」を強烈にアピールする結果となった。
25日、京を出発して翌26日には野田・福島の南約1里(約4km)の天王寺に着陣すると、信長のもとには近隣諸国から挨拶に駆けつける者が引きも切らなかった。
来客たちは織田軍が勝つものと信じて疑わず、たちまち野次馬と化して戦場をまるで物見遊山のように見物して回る始末だった。
だが、歴戦のつわものである俺たち織田軍の将兵は、戦場についたとたんに今回の戦が極めて難しいことを悟った。
現代で言えば大阪市にあたるこの一帯は、淀川の河口付近にあたり、大小無数の島がいたるところに散らばり、網の目のように張り巡らされた川とともに大軍の展開を許さない厄介な地勢を備えていた。
軍の移動はところどころにかけられた橋や小舟によって行うしかなく、多勢を恃んで一気呵成に攻撃することはほぼ不可能だった。
(現代の大阪を歩いとっても、ところどころ水路や運河は目につくけど、こんなに移動しにくさを感じたことはない。いたるところに道や橋が通じてるからやろな。ここまで広範囲に島が散らばった地形やと、力攻めをすればするほど犠牲者が続出する。さて、信長はどうするか・・・。)
信長は元から攻めにくさを認識していたようで、天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波といった要所に陣地を構築し、海岸沿いにも陣をもうけ、遠巻きに野田・福島両城を包囲した。
海に面している西側を除き、北・東・南の要所に弧を描くように拠点をもうけ、まずは地歩を固めようとしたのだ。
さらに、敵軍を内から揺さぶることをねらい、調略をしかけた。
敵は三好三人衆だけでなく、三好の旧主にあたる細川昭元や三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房等の三好一族や三好家重臣、一色龍興や長井通利ら浪人衆の寄合所帯だ。
信長が将軍の名代として率いる織田軍に対し、強力な指導力を持ったリーダー不在の敵軍は結束力に乏しいと思われたのだ。
案の定、28日には三好政勝、香西長信らが織田軍へ寝返ってきて、敵の脆弱性はあらわになった。
こうなると、織田軍が俄然優位となる。
月がかわって9月3日には、戦場の北方にある中嶋城へ足利義昭が入城し、将軍の親征に織田軍の士気は高まった。
その間にも信長は着々と準備を進めていた。
8日、石山本願寺の西約10町(約1.1km)の楼岸というところに砦を築き、斎藤新五、稲葉一鉄、中川重政を入れた。
次いですでに陣地をかまえていた川口に砦をつくり、平手監物、平手汎秀、長谷川与次、水野直盛、佐々成政、塚本小大膳、丹羽氏勝、佐藤秀方、梶原景久、高宮右京亮を置いた。
9日には天満が森へ本陣を進めると、次の日から各部隊に集めさせていた大量の草を使って敵城の周囲の入り江や堀の埋め立てを開始した。
12日には敵城と同じ島内、距離にして北へ約10町(約1.1km)の海老江村に本陣を進め、足利義昭を陣内に迎えた。
織田軍の各部隊は毎夜先を争うように土手を築いては物見櫓を建て、包囲網は着実に狭まっていた。
日に日に縮まる包囲網は、敵兵を心理的に追いつめるはずだ。
さらにこの間、紀伊国守護・畠山昭高を通じて出兵を依頼していた紀州勢の参陣が実現し、大坂に到着していた。
根来・雑賀・湯川・奥郡などから集まった紀州勢は織田軍優勢に傾きはじめた戦局を、決定的にするだけの力を持っていた。
総勢約2万という兵力もさることながら、約3千とも言われる鉄砲の火力こそ重要だったのだ。
元々、織田軍には大鉄砲(通常の鉄砲より銃身を太く、弾を大きくし、射程・威力を増した銃)をはじめ1千を超える鉄砲があったが、紀州勢の到着により、その威力は一気に数倍に増大した。
信長は大坂の地が無数の島と小川によって構成されていることを考え、射程距離の長い鉄砲を攻撃の中軸に据える作戦を立てたのだが、そのために是非とも必要な紀州勢の参陣は大きい。
敵味方の銃声は日夜戦場に響き渡り、天地も轟くような轟音が絶えなかったが、織田軍の火力の優位は圧倒的だった。
じきに三好三人衆側は音をあげ、何度も和睦を懇願してきたが、信長は許さない。
「和睦を泣きついて参ったとなれば、今少しで落城するぞ!一気に攻め落としてしまえ!!」
と、かえって攻撃の手を強めさせた。
(最初地形を見たときは、かなり手こずると思ったけど、さすがは信長やな。きちんと作戦を準備し、しかもそれが見事に当たってる。この戦、もう先は見えたな。)
俺は織田軍の圧倒的優勢を見て、早期の戦争終結を確信していた。
早ければ、あと数日で三好三人衆らの抵抗は終わるだろう。
俺だけでなく、織田軍の陣中には明るい雰囲気が充満していた。
だが、9月13日夜を契機に、事態は一変した。