第49話 越山
永禄4年(1561年)6月中旬、織田信長は珍しく沈んでいた。
先月行った西美濃遠征では、さしたる戦果もなく撤退に追い込まれ、犬山城主・織田信清の離反を招いた。
その報復のため、今月上旬に行われた犬山方の支城・於久地城攻めでは側近の岩室長門守を失い、城壁を破りながら城を攻略するに至らなかった。
岩室は信長お気に入りの側近のひとりであり、その有能さは広く織田家中で認められていた。
また、桶狭間の戦いの際、信長はわずか5騎を従えて出撃したが、そのうちのひとりが岩室だ。
信長の思いを察して動くことに長けていたので、信長にとっては手足をもぎ取られたように感じられるのだった。
彼の死を聞かされた信長が落涙するのを間近で見ていた俺には、信長の心境がありありとわかった。
俺も身近な人間とある日突然引き離される経験を何度も重ねてきたし、その人との思い出が多ければ多いほど、喪失感は大きくなるものだ。
ただ、信長が心の奥底で最も喪失感を感じているのは、寵臣の死ではないと俺は直感していた。
家督を継いでから信長は数え切れないほどの戦いを行ってきたが、岳父・道三の救援失敗といい、今回の遠征といい、美濃との戦いではこれといった戦果を得られたためしがない。
決して美濃勢との戦闘に負けているわけではない。
野戦ではたびたび勝ってもいる。
しかし、兵の移動や補給に苦労し、最後は継戦能力を失って撤退するしかなくなるのだ。
信長は驚異的な機動力と判断力を活かし、直線的な軍事行動を得意としている。
言い方を変えれば、それ以外の戦術の幅がまだまだ乏しいのだ。
より視野を広げる「気づき」があれば、殻を突き破ることができるのだろう。
「私は川より山の方が攻めやすい気がいたします。」
「む?何と申した?」
黙考している信長に俺が声をかけると、意外そうな声で返事が返ってきた。
どうやら俺が予想した通り、美濃攻めの閉塞感について頭を悩ませていたらしい。
俺の話に興味を示し、意見を聞こうとしている様子だった。
「川は遮るものがなく、敵からこちらの動きが見透かされてしまいます。山は険しく、一見攻めにくそうに思えますが、山向こうの敵からもこちらを見つけにくい。ゆえに、川よりも山の方が攻めやすいと申しました。」
「・・・山か。そちはまず犬山を破り、しかる後に東美濃へ攻めかかれと申すのじゃな?」
「左様でございます。」
「ふむ、一理ある。犬山は必ず屠り、長門の仇を討ってくれよう!だが、東美濃の諸城は山城ばかり。時がかかり過ぎぬか!?」
「致し方ございません。今回の戦で実感いたしましたが、それだけ美濃は攻めにくい国でございます。抗う者は攻め、味方にできる者は利を持って誘い、少しずつ攻めていくしかありません。」
「利を持って誘う、か。今川義元を討ち、わしの武威は大いに上がったと思うておったが、美濃衆はさっぱり靡いて来ぬ。なかなか上手くいかぬものよな。」
「物事が上手くいかないことはよくあります。諦めずに少しずつ進めていけば、やがて熟柿が落ちるように美濃は取れましょう!」
「あいわかった。じゃが、他にも手立てはないか?」
「遠交近攻という手があります。」
「遠交近攻とな?」
「はい。唐土(中国のこと)で古くから用いられた策でございます。遠くと誼を交わし(仲良くすること)、近きを攻める。隣国を攻めるため、そのまた隣国と手を結び、挟み撃ちを狙うのです。」
「であれば、北近江(現在の滋賀県北部)の浅井と結ぶべきであろう?」
「その通りでございます・・・!」
さすがに信長は察しがいい。
美濃の隣国と言えば、東の武田、北の朝倉、西の浅井となる。
そのうち、甲斐の武田とは親戚にあたる東美濃・遠山家を通じて良好な関係を築こうとしているが、武田信玄の目は北の信濃(現在の長野県)や関東に向けられ、美濃へ出兵する気はない。
あくまで西側国境の安定のため遠山家や織田家と結ぼうとしていて、あまり頼りになりそうになかった。
北の朝倉は大黒柱だった朝倉宗滴の死後、一族の内紛や一向一揆に苦しみ、これまた役に立ちそうにない。
また、朝倉家は主家の斯波家を追放する形で越前(現在の福井県)の守護となっており、斯波家を支え続けた織田家とは伝統的に仲が悪い。
最も頼りになりそうなのが、北近江の浅井家だった。
浅井家は南近江の六角家に服属していたが、前年に敵対の姿勢を見せ、8月の野良田の戦いで勝利していた。
いま最も勢いのある家のひとつと言って良いだろう。
また、六角家は美濃一色家と同盟関係にあり、浅井家にとって「敵の敵」にあたる織田家は有力な同盟相手候補になるのだ。
こういった情報を、俺は腹心の安食右近を使って集めさせているが、信長も情報によく通じている。
また、たちどころに同盟相手を浅井家に絞り込んだ信長の分析も、非常に的確なのがよくわかる。
「早速、浅井に使者をつかわそう。浅井と結び、東美濃を攻め取れば、稲葉山城を三方から脅かすことができよう。又介、でかした。褒めてとらす。」
いつしか、信長の顔には晴れやかな表情が広がり、俺はお褒めの言葉をもらった。
方向を見失いそうだった信長の戦略も、しっかりと先を見据えて動き出しそうだ。
「それと、又介。そちの話から、わしはひとつ思いついたことがある。重ねて礼を申すぞ。」
何だかよくわからないが、信長は他にも何か思いついたらしい。
(一体、何を思いついたんやろ?)
俺はキツネにつままれたように、愉快そうに笑う信長をただ黙って眺めていた。