表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/266

【ネタバレ注意!!】 登場人物紹介(~43話)

海世様にアドバイスをいただき、登場人物紹介を作ることにいたしました。


随時更新していきますので、ご活用ください。


ネタバレ要素を含みますので、閲覧の際は注意してください!

【転生前関係者】

大田勇介

 昭和55年(1980年)生まれ。今作の主人公。架空の人物。特にこれといった特徴はなく、平凡な独身人生を送っている。小学生の頃から歴史好きで、公立高校の社会科教師になった。幼馴染の吉郎からは「マタスケ」と呼ばれている。


藤田吉郎

 昭和55年(1980年)生まれ。主人公の幼馴染。架空の人物。明るく社交的な性格で、男女問わず交友関係が広い。コピー機などオフィス向けの機械を売る会社に勤めている。何事も要領がよく、度胸もあるため、職場での信頼も厚い。周囲からは女好きすぎる点が玉にキズと言われ、そのためかいまだに独身。2歳年上の雄輔という兄がいる。


【太田家関係者】

太田又介

 大永7年(1527年)生まれ。今作の主人公。太田家の次男。後の太田牛一。大田勇介の転生後の姿。諱は定季。守護斯波義統の嫡男岩竜丸に仕え、弓や学問を教えた。父や兄の死後、織田信長に仕えて6人衆のひとりに選ばれ、「史官」として近侍することを許された。


太田和泉守

 明応9年(1500年)生まれ。太田家当主。架空の人物。諱は達定。新介、又介の父。尾張国春日井郡山田荘安食村の土豪。尾張国守護斯波義統に仕えた。一見厳しそうな父親だが、息子たちには意外と甘い一面も。弓の名手。天文23年(1554年)7月12日、織田信友らの斯波義統弑逆に巻き込まれ、奮戦するも最後は子の新介とともに自害して果てた。


太田新介

 永正16年(1519年)生まれ。太田家長男。架空の人物。諱は統定。父と同じく守護斯波義統に仕えた。やんちゃな性格は影を潜めたが、相変わらず弟のことが大好きで仕方がない。天文23年(1554年)7月12日、織田信友らの斯波義統弑逆に巻き込まれ、奮戦するも最後は父の和泉守とともに自害して果てた。


山田せつ

 大永6年(1526年)生まれ。架空の人物。始めは主人公の兄・新介の妻として太田家に入る。夫婦仲は良好だったが、織田信友らの弑逆事件で夫や義父、実家の親兄弟を失う。新介の喪が明けた後にその弟・又介と再婚し、太田家に残った。又介との間に長男又七郎を授かる。


安食りつ

 永正15年(1518年)生まれ。太田家に仕える下女。架空の人物。安食村の名主の次女で、太田家の分家筋にあたる。いつも微笑みを絶やさず、ほんわかとした雰囲気を持ち、働き者。幼少時より婚約していた遠縁の安食伝兵衛と結婚し、2男1女を授かる。


安食伝兵衛

 永正15年(1518年)生まれ。太田家家臣。架空の人物。諱は定春。新介の側近。太田家の分家の出で、新介と又介の又従兄弟にあたり、新介の乳兄弟でもある。槍の名手。安食りつと結婚し、2男1女を授かる。新介の死に際しては又介への連絡役を託され、以後又介に仕える。


安食右近

 大永7年(1527年)生まれ。太田家家臣。架空の人物。諱は定夏。安食伝兵衛の弟。又介の乳兄弟でもある。又介の側近。


安食たみ

 文亀2年(1502年)生まれ。架空の人物。安食伝兵衛、右近の母。太田新介、又介兄弟の乳母をつとめ、又介らの母が亡くなった後は、実の母のように心を砕いて世話をしてくれている。


泰源和尚

 安食村の成願寺の住職。架空の人物。太田又介と安食青梅丸の出家を執り行い、以後その師となった。又介を将来寺を背負って立つ存在と期待していたが、その還俗に同意した。


【斯波家関係者】

斯波義統

 永正10年(1513年)生まれ。斯波家(武衛家)第14代当主。尾張守護職の地位にあるが、実権を奪われていることを無念に思っていた。そのため、失われた実権や遠江守護職を取り戻すため、織田信秀を支持していた。天文23年(1554年)7月12日、織田信友らの謀叛に遭い、自害した。


斯波義銀

 天文9年(1540年)生まれ。太田又助の主君。斯波家(武衛家)第15代当主。幼名岩竜丸、初名は義親。斯波義統の嫡男で、幼少期から次期当主と期待され、父の影響を受けて守護の実権を取り戻そうと学問や武芸に猛烈に励んでいた。織田信友らに父義統を討たれた後は那古野城の織田信長を頼り、守護に擁立された。


那古屋弥五郎

 清洲衆の将のひとりとして小豆坂の戦いに参戦する。昔から新介、又介兄弟の父和泉守に世話になっているらしく、又介らに親身になって世話を焼いてくれた。父ちゃんありがとう!小豆坂の戦いで劣勢に陥った味方を支えるべく奮戦するが、戦死を遂げた。後を嫡男の那古野弥五郎が継いだ。


【織田弾正忠家(勝幡織田家)関係者】

織田信秀

 永正8年(1511年)生まれ。織田弾正忠家当主。織田信長の父。津島・熱田を押さえて尾張国随一の富強を誇り、守護代の分家という低い家格ながら尾張国の中心的存在となり、国外へ勢力を伸ばす。天文16年8月、三河国岡崎城の攻略を目指すが、今川軍の援軍が現れたため、これを小豆坂で迎え撃ち、勝利を収めた。加納口の戦いに敗れた後は勢力が振るわず、宿敵・斎藤利政と同盟するなど挽回に努めたが、果たせぬまま天文21年(1552年)3月3日に病死。


織田信長

 天文3年(1534年)5月12日生まれ。織田信秀の嫡男。変わった人やものが大好きで、主人公の史官になりたいとの夢を聞き、面白がって部下にした。父には早くから後継者と期待され、那古野城を預けられたが、元服の後くらいから奇矯な行動が目に余るようになり、「大うつけ」と陰口を叩かれる。父・信秀の葬儀では位牌に抹香を投げつける暴挙に出て、さらに評判を落とした。このため、家督相続直後から敵対する勢力との抗争が頻発するが、子飼いの軍勢とともに何とか切り抜け、桶狭間の戦いでは今川義元を討ち取る大戦果をあげ、一躍周辺諸国にその武名をとどろかせる存在となった。


織田信成(織田信勝、達成)

 織田信秀の子。信長の同母弟。優等生タイプだが、実は腹黒い性格。父・信秀の生前から末盛領内の統治にたずさわり、その死後は末盛城主となった。父の葬儀で問題行動を引き起こした兄・信長と対照的に、行儀良く振る舞って家中の称賛を得る。人望のない信長の破滅を予測し、当主の座がいずれ自分に転がり込むと期待。だが、意外にも信長は軍事的成功を収めて地位を固め始めたため、那古野城代・林秀貞を味方につけて兵を起こすが、稲生の戦いに敗れて屈服せざるを得なくなった。その後、再度信長への反抗を企てたが、重臣・柴田勝家の離反を招く。勝家の通報により事情を知った信長に誘い出され、清洲城で討ち果たされた。


織田信光

 永正13年(1516年)生まれ。織田信秀の弟。守山城主。のち、那古野城主。次兄の信康とともに長兄・信秀を助け、小豆坂の戦いなどに参戦。信秀死後はその嫡男・信長に援助を惜しまなかった。清洲城の実力者・坂井大膳の危険な誘いを逆手に取り、清洲城を乗っとって信長に献じ、代わりに那古野城を譲り受けた。天文24年(1555年)11月26日、近臣の坂井孫八郎に殺された。


織田信康

 織田信秀の弟。犬山城主。兄を助けて小豆坂の戦いをはじめ数多の戦に参戦し、戦功を重ねた。加納口の戦いでは兄を逃すために犠牲となり、斎藤軍に討たれた。


織田信広

 織田信秀の長男。信長の異母兄。三河国安祥城主を務めていたが、今川軍の攻撃をしのぎきれず捕虜となる。松平竹千代との人質交換により無事帰還したが、その評価はガタ落ちで以後日陰の存在となる。家督を継いだ信長に取ってかわろうとの野心を持ち、一色義龍と結んで清洲城を乗っ取ろうとしたこともあった。


織田信次

 織田信秀の弟。大人しい性格。初めは深田城主を務め、小豆坂の戦いにも参戦した。兄の信光が那古野城主に転じると、代わって守山城主となる。しかし、家来が誤って甥の秀孝を射殺してしまったため、後難を恐れてその場から逃走して流浪の身となった。後任の織田信時の死後、守山城主に復帰。


織田秀孝

 信長の異母弟。美形揃いの信長の兄弟の中でも、際だった美貌に恵まれていた。天文24年(1555年)6月26日、ひとりで馬の遠乗りに出かけ、松川の渡し付近で叔父の守山城主・織田信次の家来に誤って射殺された。


織田信時

 織田信秀の次男。信長の異母兄。利発で性格にクセがなく、信長と仲が良かった。逃亡した叔父・信次に代わり、守山城主となる。重臣・坂井喜左衛門の子・孫平次を寵愛したが、それによりもうひとりの重臣・角田新五の謀叛を招き、自害させられた。


平手政秀

 延徳4年(1492年)5月10日生まれ。織田弾正忠家重臣。信長が那古野城主となった際に家老として付けられた。信長の補佐だけでなく、信秀からは軍事や外交面で重用された。信長の家督相続後は外交方針で主君と意見を異にした。天文22年(1553年)閏1月13日、信長に方針の転換を促すため、自邸で切腹した。諫死であった。


林秀貞

 永正10年(1513年)生まれ。織田弾正忠家重臣。信長が那古野城主となった際に家老として付けられた。信長の家督相続後、主君がその座に相応しくないと考え始め、次第に織田信勝に接近する。織田信光死後に信長から那古野城代に任じられたが、弟の美作守の勧めもあって、離反して稲生の戦いを引き起こす。その敗戦後は再び信長に帰順することを許され、家老として遇された。


柴田勝家

 大永2年(1522年)生まれ。織田弾正忠家重臣。己の腕っぷし一本でのし上がったため、主家への恩義を感じていて忠誠心が高い。面倒見の良い性格だが、文化系の主人公との相性はイマイチである。信長の弟・信成に仕え、その名代として軍を率いることが多い。


佐久間信盛

 大永8年(1528年)生まれ。織田弾正忠家重臣。部隊指揮だけでなく、政務や戦略立案にも才能を見せるが、一言余計なのが玉にキズ。一族の盛重とともに信長に帰順し、それまで武勇一辺倒だった信長近臣にはない才を持つ人物として信長に重用される。


佐久間盛重

 織田弾正忠家重臣。当初は一族の信盛とともに信長の弟・信勝に仕えていたが、信長配下に転じる。信長の信頼厚く、数百人単位の部隊指揮官として重用される。


【織田大和守家(清洲織田家)関係者】

織田信友

 織田大和守家当主。尾張国守護代。守護・斯波義統を主君に仰いでいるが、実際は飾り物のように扱っていた。しかしながら、清洲城主として君臨する信友自身も実権は坂井大膳らに握られていた。天文24年(1555年)4月20日、味方とした入城したはずの織田信光の兵に襲われ、自害した。


坂井大膳

 織田大和守家重臣。家中で最も力を持ち、小守護代や又代などと呼ばれた。弟の甚介や織田三位らと家中の実権を握り、主君・織田信友を傀儡化していた。天文23年(1554年)7月12日、斯波義統を討って主君を国主の座に押し上げることに成功したが、以後信長との間で苦戦が続き、次々に盟友たちを失う。最後は味方として清洲城に引き込んだ織田信光に裏切られ、駿河の今川家へ亡命した。


【織田伊勢守家(岩倉織田家)関係者】

織田信安

 織田伊勢守家当主。尾張国守護代。妻は織田信秀の妹。織田の総本家に当たるため、隠然たる勢力を持っている。縁戚関係にあった織田弾正忠家とは表だって敵対していなかったが、一色義龍の調略を受けて敵対に転じた。嫡男の信賢を廃嫡しようとして逆に追放され、美濃斎藤家に亡命した。


織田信賢

 織田伊勢守家当主。父の信安と不仲となり、廃嫡されそうになったため、先手を打って父を追放して自ら当主となった。しかし、そのお家騒動につけ込んだ織田信長に攻められ、浮野で戦う。信長軍とは激戦を繰り広げたが、敵の援軍として現れた犬山城主・織田信清の軍によって総崩れとなる。その後はすっかり力を失い、3ヶ月ほどの籠城の後に信長に降伏し、国外追放となった。


織田信清

 織田信秀の弟・信康の嫡男。信長の従兄弟に当たる。加納口の戦いで父・信康が戦死したことを恨み、信秀の代から織田弾正忠本家と敵対。だが、後に信秀の娘(信長の姉)をめとって和解した。居城の犬山は尾張国の最北部に位置し、本家と異なり織田伊勢守家に属する。ただ、所領問題でモメたことがあるため、伊勢守家との関係は良好とは言い難い。浮野の戦い以降、信長と手を組み、伊勢守家の没落に重要な役割を果たした。


【岡崎松平家関係者】

松平広忠

 大永6年(1526年)生まれ。岡崎松平家当主。徳川家康の父。幼くして父・清康を失い、本拠岡崎城を追われた。今川家の後援を受けて復帰を果たしてからも苦戦が続き、かつての本拠安祥城を織田に奪われるなど苦難の日々を過ごす。小豆坂の戦い後は織田信秀に屈服し、嫡男竹千代を人質に取られた。信秀の勢いに翳りが見られるようになると逆襲に転じたが、思うように盛り返せず今川家への従属度をより深めた。天文18年(1549年)3月6日病死。享年24。


松平元康(徳川家康)

 天文11年(1543年)12月26日生まれ。松平広忠の嫡男。後の徳川家康。幼名竹千代。初名は元信。織田・今川の二大勢力に挟まれて苦戦する父の手駒として、人質として尾張・駿河と他国での生活を余儀なくされた。元服後は今川一門に準じる待遇を受けたが、それは今川家の三河支配戦略の一環であった。


【美濃斎藤家関係者】

斎藤道三(斎藤利政)

 明応3年(1494年)生まれ。美濃国主。大変な自信家かつ野心家。他国から流れてきて美濃守護・土岐家に仕え、その重臣・長井家の一族に列した父の後を継ぐと、才能に乏しい上役たちを次々に排除し、美濃国主に収まる。だが、その直線的で露骨な権力奪取は美濃国衆に嫌われ、政権は不安定なままだった。ついには嫡男・高政との不仲が抗争に発展し、弘治2年(1556年)4月20日の長良川の戦いで敗死した。娘婿の信長を高く評価し、信長に与えた「美濃国譲り状」は信長の美濃侵攻の大義名分となった。


一色義龍(斎藤高政)

 大永7年(1527年)6月10日生まれ。美濃国主。斎藤道三の嫡男。穏やかだが、武将や為政者としての能力は十分なものを持つ。大人しい性格であることから父の道三には覇気のない若者と低く評価され、廃嫡の恐れが出てきたため、先手を打って絶縁した。長良川の戦いで道三を討ち取ると、美濃国主となった。父の業績を否定して母方の本姓・一色を名乗り、行政組織を整え、改革を標榜するも、土岐家の追放は解かなかったために十分な支持は得られなかった。このため、他国への大規模な軍事行動を行い得ず、調略による対応を余儀なくされた。


【今川家関係者】

今川義元

 永正16年(1519年)生まれ。今川家当主。太原雪斎の補佐を受け、駿河・遠江両国を支配下に収め、北の武田、東の北条と同盟して西の三河国へ全力を投入できる状況を構築する。松平広忠の死後、岡崎松平家を取り込んで事実上三河の支配に成功した。また、鳴海城主・山口教継の内応により尾張国への勢力伸張を果たす。しかし、度重なる三河国衆の反抗に手を焼き、それ以上の侵攻は停滞した。永禄3年(1560年)に入り山口教継父子を誅殺したころから織田信長の圧迫を受け、局面打開のために尾張へ親征するが、桶狭間の戦いに敗れ、自身も戦死した。


太原雪斎

 明応5年(1496年)生まれ。今川家重臣。今川家臣庵原家の出で、義元の教育係を務めた。京の建仁寺で俊才の誉れ高く、義元の家督相続後はその政治顧問のような立場となり、政治・軍事・外交などあらゆる面で才能を発揮する。小豆坂の戦いでは前線部隊の指揮を取った。松平竹千代が今川家の人質となると、その教育係となった。弘治元年(1555年)閏10月10日、病死。


山口教継

 笠寺領主・山口家の当主。戦国武将らしい、したたかな性格。織田信秀に仕えて戦功を積み重ね、鳴海城を与えられた。信秀の死後は今川家に乗り換え、笠寺砦を今川軍に提供する。大高城・沓掛城を調略により今川方に引き入れ、抜群の働きを見せた。永禄3年(1560年)、招かれた駿府において嫡男・教吉とともに謀殺された。


山口教吉

 笠寺領主・山口教継の嫡男。父とは異なり、素直で騎士道精神の持ち主。織田信長とともに初陣を飾るなど、親密な関係にあった。父に従って信長と敵対することになるが、「三の山・赤塚の戦い」の後に捕らえた信長軍の馬や捕虜を信長に返すなど、さわやかな人柄をみせた。永禄3年(1560年)、招かれた駿府において父・教継とともに謀殺された。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ