逢ひ初め
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一
誰かに心臓をぎゅっと掴まれてゐる感覚だ。こんな時は懶惰なる安逸をじっと抱きしめたくなる。人は理論ばかりでは立ち行かぬ。感情をしかと抱き寄せて頬ずりするものだ。人窮する時見識を得る。人と云っては言葉が過ぎたか、少なくとも私はさう云ふ人間だ。
薄汚ない黒黒とした鉄扉と私は今相対峙してゐる。今日から私が働く世界の入口だ。煙突から黒煙が無闇にむくむく立ち騰るのを見た。私も煙と渾然一体となって無闇に飛び去りたいと思った。
吹けば飛ぶやうな心持で鉄扉の握りを引いた。片腕に感じた重みの大半を私の気後れが占めてゐる気がした。敷居を跨ぐと幾つかの人があった。が、睫毛の一本一本に纏綿する不安の念が私を伏目がちにした。私は店主に導かれて控室に這入った。嗅ぎ慣れない店内の空気に動悸が烈く波打った。私は自分がこの世界に於ける不自然であると云ふ事を感じてゐた。
「あら、初めまして、新入り君?」
床面から顔を上げると、卵に目鼻と云ふやうな実に可愛いらしい女性が立ってゐた。彼女は名を夕子と云った。夕子さんは私に学校や年齢を訊いた。夕子さんは私より二つ年上だった。三言四言話をするうちに、夕子さんの弟が私の一つ年下で私と同じ学校だと云ふ事が判明して、その偶然を二人で笑った。
夕子さんはその言葉と花笑みとを以て、張り詰めた私の気を極めて物柔らかに解きほぐして行った。口不調法な私が、間を置かずにすらすら話ができるほどに、夕子さんには童女のやうな素直さと純粋さとがあった。この世界に於ける私の不自然さも、夕子さんの純真無垢さを前に、たちまち雲散霧消してしまった。
朝夕の春寒まだ去らざる卯月の末、夕子さんは就職のために店を去った。夕子さんの居ない職場は、まるで花弁の開かない薔薇ぢゃないかと思った。私の頭の中に閃く、つい去年まで夕子さんと共に働いてゐた頃の光景は、いつも夢幻的な趣を帯びてゐる。
逢ひ初めた時の夕子さんの顔は、靄がかゝったやうにぼやけてしか現れてくれない。だが、夕子さんの純粋さを思ひ浮かべるには、そんな茫漠たる輪廓中の一小片で余りに十分であった。私が夕子さんにもう一度逢ひたいと思ふには、それだけで余りに十分であった。
二
一つの教室に人がたくさん居る。どいつもこいつも同じやうな顔をしてゐる。実家から二十分ばかり名古屋と反対方面の電車に乗ると、小高い丘陵の頂に私の新しい学舎が見える。見知らぬ土地の見知らぬ人間の性質は、私のそれとことごとく違ってゐるやうに思へた。私の十六年の生涯の中では、交はることのなかった人種がこの教室に蝟集してゐる。私は同じ制服を着けた同級の生徒を、馬が合はぬと評価した。
しかし、私の気は桜の花が咲いてから散り落ちるまでの時日を要さずに変化した。初めは石膏面のやうに見えた連中も、次第に見慣れた顔になって来る。見慣れて来ると、どんなものだか知りたいと思ふ。性質を知ると愛着の念が起って来た。つんと澄ましてゐた私も、話し掛けられると猫みたいに豹変した。
秋風が吹いて、中学の同窓の影が薄れて来た頃、夕子から突然手紙をもらった。夕子は私と同じ組にゐたが、殆んど親しく口を利いた例がなかった。
私は夕子と一度だけ簡単な挨拶をしたことを覚えてゐた。夕子は「初めまして」と云って、その大きな二重瞼でじっと私を凝視めた。私は腹の中を見透かされたやうな気がして、少し狼狽たやうに目を外らせた。その時私は実は夕子のことを猫みたいに可愛い顔をしてゐるなあと考へてゐたのだ。
私は夕子が今更になって手紙を寄越した理由を都合よく解釈した。それからと云ふものは、夕子の事が妙に気にかゝる。私は早速夕子に返事の手紙を出した。文通の内容は他愛ないものであった。さうしてむしろそれが夕子にとっては大事らしいものであるやうに感じた。私もそれだけで楽しかった。
学校での二人はあいかはらずであった。夕子は私と文通をしてゐる事を噫にも出さずにゐた。夕子がそんな風であるから、私も自分から進んで何にもしなかった。もし交際と云ふ文字をこんな間柄にも使ひ得るならば、二人の交際は極めて淡くさうして軽いものであった。
ただ一つだけ以前の二人と違ってゐるところがあった。私は夕子とよく視線が合った。夕子は私と視線が合っても、その目を外らすことをしなかった。恥づかしくなって目を伏せるのは私と決まってゐた。私はこの秘密の邂逅に、どことなく疚しさを感ずる滋味を覚えた。
凛冽たる朔風が身に沁む頃、名古屋でも珍しく雪が積もった。学校帰りの私は、四方を雪が包んだ畷道を、実家の方へ歩いてゐた。私にはその一面の銀世界が殊更美しく見えた。その時私の頭の中ではショパンのプレリュウドが鳴り響いてゐた。
高等学校を卒業した夕子と私は、それぎり離れ離れになった。どっちから文通を絶ったか、それがいつだったか、今の私には何れも判然とはしない。それどころか、高等学校の制服を着た夕子の姿すら判然とは思ひ浮かべることが出来ずにゐた。当時の私の判然としない態度の意趣返しに、夕子がさうしてゐるやうな気が少しした。
天然自然に青臭い二人は、酒の味を覚えた私の記憶の中で、次第に朧気になって、今では消えかかってゐる。ただ四百四病の外で聴いたショパンの旋律だけが、的皪たる銀世界の情景と一緒に蘇ってくる。
三
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
私はふと与謝野晶子の歌を思ひ出した。私は名古屋の人であるから、京都に住む人を羨ましいと思ふ。今日は就職運動のため京都へ来てゐる。私は鴨川沿いの舗道を祇園に存する目的地へ向って歩いた。
私はそこの職員に案内されるまま席に就いた。案内された卓子には既に四人の学生が居て、就職運動の話に花を咲かせてゐた。挨拶をしようにも折が悪いので、私は彼らの談笑を聞くとも聞かぬともなく聞いた。
しばらくすると一人の女が新たに私の居る班に加はった。女は口にマスクを掛けてゐたので、顔の表情が判然分からなかった。女は私の左隣に坐った。なんだか気が落ち着かない私は、はっと立ち上って手洗いに行き、ちっとも汚れてゐない両手を、ゆっくり丁寧になるべく時間のかゝるやうに洗った。
席に帰ると、私の後に来た女がそこに居ない以外何の変化も群の上には見られなかった。私は自分の行為の結果に不当な不満を抱いた。少しすると班の一人に何か馴れ馴れしく話しかけられたが、自分一人が蚊帳の外にされた左隣の女の心を思ふと気の毒になり、ただ一言だけで済ました。
行事の開始時間になると、班の内で改めて挨拶を取り交した。めいめいが自分を紹介した。「初めまして」と云って恭しく礼をした左隣の女は、夕子と云ふ名であった。夕子は茶の湯を嗜むと云った。なるほど夕子の話し方は静穏で落ちついて、ゆっくりしてゐた。その一挙手一投足にもどことなく気品があった。
私が和歌を好きだと云ふと、夕子は、私が和歌に心を向けたきっかけを訊いた。その後で四方八方から矢継早に質問を浴びせられたので、その時間は私が詰まらぬ事を話すだけで終った。私は皆に済まなく思った。私は自分の話をするよりも夕子の事が知りたかった。
一日の行事が終ると、隣接する博物館へ案内された。私は頃合ひを計って、自然に夕子と二人ぎりで見物した。小柄な夕子は時時そのしをらしい眼で私の顔を見上げた。上目使ひに私を見る夕子には、そのまま眼の中に入れても痛くないやうな可愛らしさがあった。
展示されてゐる物品は、二人にとって大した興味を惹く話題にもならなかった。夕子がただ手持ち無沙汰に立ってゐるやうに見えたので、私は遠慮なく夕子に話しかけた。夕子と私は趣味が合った。私には趣味の合ふ異性の友人が居なかったので、単純な私は夕子の一切が気に入った。夕子との談話は、素直に明朗に馴れ馴れしく進んで行った。
適意の書の事や、暇があれば本屋へ行くと云ふ事や、出版社で働きたいと云ふ事や、すべてこれらは、私にとって僥倖の談柄に違なかったが、同時に私の口下手に対する烈しい自己嫌悪も感じさせた。
私は会話が不得手であった。ほんの一瞬間で思考を廻らせ言葉を案出すると云ふ当意即妙の行為は、私の痴鈍な頭では到底出来ない相談であった。
別れ際に私と夕子は、「またここで逢ひませう」と約束をした。それは何等の拘束力をも持たない、私の独善的な願望だったが、夕子はにっこり笑って肯いた。
電燈のない真暗な鴨川沿いの舗道を、行きとは反対の方向に歩く。四辺が暗かったので、私は道に迷った。祇園で覚えた喜悦と悲哀とに後髪を引かれてゐるやうな気がした。
私は帰りの電車の中で、夕子との会話を反芻した。どうしてあんなに不粋な事を云ったのかと八千度臍を噬んだ。私は使ひ処のない返答を腹の中に幾つも拵へた。
私は夕子の事で全く頭を占領されてゐた。車窓の底には京都の宵景色が流れてゐる。等間隔に映ずる電燈の灯影に誘き出されて、祇園での思ひ出がぼうっとゆかしく匂った。私の姿が写る部分だけは窓の外が見えないけれど、私は夕子の顔をその中に浮べてみて、宵景色の流れに顔佳花を散らせた。
夏になった。夕子には逢へなかった。夕子の姿は雨夜の月だが、祇園の桜月夜を、私はまだ知らずにゐる。夕子が好きだと云った恋愛小説を私は読まなかった。いつかこの小説が上梓されて、夕子の目に触れたら好いぢゃないかと、そんな取り留めもない事を考へてゐる。
四
「初めまして」
興奮と緊張とで私の声は震を帯びてゐた。夕子は振り返って「初めまして」と返した。小さい顔に、くりくりした漆のやうに黒い目が可愛かった。
風が吹くと、夕子の薄地の黒いワンピースは様様にその表情を変へ、水のやうなドレープが美しく靡いた。
夕子と私は文通をしてゐた。夕子は実に変ってゐた。まるで摑みどころのない雲のやうな人であった。夕子は一般に流行る音楽や文学などについて、ほとんど何も知らなかった。平凡な私に取っては、夕子が尋常の人間でないやうに思はれた。私はそんな超然たる夕子とかかはりを持てた事が嬉しかった。
水茎の跡越しの相手しか知らなかった夕子と私は、ひょんなことから逢ってみやうかとなった。
当日、気がそわそわしてじっとしてはゐられなかった私は、待ち合はせる約束の金山駅に三十分早く着いた。それでもやはり気が落ち着かなかった私は、夕闇の迫った街を上の空で二三町も歩いた。すれ違う人の顔に滲む、彼らの十年一日の如しと云ふやうな安穏で平凡な生活がひどく羨ましかった。
夕子は仕事のため、私より一時間遅れて来た。私は失はれた夕子との三十分を非常に惜しく思った。
駅で逢ひ初めた夕子と私は、近くの小さな公園へ行った。菩提樹並木の蔭のベンチに腰を掛けて、互ひを見つめ合った。夕子はふふふと笑った。夕子は少しも緊張してゐないらしかった。夕子は私と逢ふ前に買って来たらしいチョコレイトを私にくれた。が、それは一寸苦かった。夕子は私より三つ年上だった。
しばらく隣合はせで話をしてゐると、夕子が寒いと云ふので、夕子と私は駅の構内にある珈琲店に身を移した。私は他人を慮ることの出来ない自分を厭はしく思った。
夕子と私は珈琲を注文した。二人分の代金を夕子が払ってくれた。女性に奢って貰った経験のなかった私が、どうしやうかとまごまごしてゐると、夕子は緋天鵞絨の蝦蟇口を可愛らしく見せびらかした。私は可愛いねと褒めてから珈琲代の礼を云った。
夕子と私は窓際の席を選んで、隣合はせに坐った。珈琲は舌に熱かったので、少し冷ますことにした。
正面の硝子に写る二人の姿が可笑しかった。外側から見れば、喋喋喃喃と語らう二人の姿に、比翼連理の風情があるやうに見えたかも知れない。同時に、街中で見かける恋仲らしき男女にも、実は一種の特別な事情が両人の間に横たはってゐるのであらうと自覚し、今までの自分の軽率な断定を改悛した。
夕子は私の髪の癖毛に触れて、ぴょんぴょんしてゐると云って笑った。さう云った夕子の心もぴょんぴょん跳ねてゐるらしく感ぜられた。夕子は自分の小指が細いのと云って私に見せた。夕子の小指は本当に細かった。まるでサッポロポテトのやうだと思った。私は思ったことをそのまま云った。夕子はふふふと笑って、サッポロポテト、サッポロポテトと繰返した。だいぶ気に入ったらしかった。その時硝子に写った私は、どうにもだらしのない顔をしてゐた。もっと苦い珈琲を注文すれば善かったと思った。
夕子と私は一時間ほど話をしてゐた。ひと口飲んだぎりの珈琲はとうに冷め切ってゐた。夕子の洋盃の中には珈琲がそのまゝに残ってゐた。私は、夕子がどんな気持ちで冷め切った珈琲を飲み干したか、推しはかることが出来なかった。
それからも夕子との文通は続いた。体を動かせばじっとりと汗がにじむ頃、広い原一面に射しかゝる金色の夕陽が、溜息の出るほど美しかった。歩く道道で、夕陽を撮る人が三四人居た。私はその感動を夕子に伝へた。夕子からは、夕陽を撮ってゐる人を撮りたいと云ふ案に相違した返事が来た。私は夕子のその一種特別な感受性を羨ましげに見た。その中には、夕子に対する妬まし気な視線も朧気に交ってゐた。
私は余裕と云ふ言葉がまるで似合はない男であった。夕子の特種な天分を抱擁する度量に乏しい男であった。
夕子との文通は次第に減じて、たうとう途絶えた。
夕子との逢ひ初めから三年過ぎた。夕子の顔も声もみな忘れてしまった。けれど、夕子と云ふ存在に棒を引いても、その時の感情はまだ生きてゐた。生きて今でも働いてゐた。
「初めまして」と云ってからはじまった二人の関係は、秋風が吹いて宙に浮いたまゝだ。このまゝ永久忘れてしまったらさぞ幸福だらうと云ふ気がどこかでした。同時にもし永久忘れてしまったらさぞ悲しいだらうと云ふ気もどこかでした。
歴史的仮名遣ひで書いてみました。間違った所があれば、是非教へて下さい。