神託
どこまでも続く板張りの廊下。暗がりの中で、緑がかった黄色の、小さな光が、ぽつぽつと揺れている。
見る者の心を揺らす、情緒と怪しさを孕んだ星屑のようなそれは、行き場を見失い、しばし中空をさまよった挙句、すこしだけ開いた襖の間にひゅうっと飛び込むと、突如目の前にあらわれた大きな直方体の上にとまり、明滅を繰り返した。
ホタルの美しい光は、その身に毒を帯びていることを示す、警告の光。
その発光効率は、電気を用いた光とは比較にならないほど高く、『冷光』と呼ばれ、ほとんど熱を発しない。いまだ人類の科学が、神の設計した自然に遠く及ばないことを示す事例のひとつである。
ホタルがとまった直方体の上には、黒と白の丸い石が、規則性をもって並べられていた。
「ふふ。次の手を教えてくれているの?」
縁側の障子を開け放し、月明かりの下で碁盤に石を並べていた長襦袢姿の少女は、この小さな客人を歓迎した。
碁盤に引かれているのは、縦と横に十九本ずつ、格子状になった黒い線。
線の交点、すなわち十九×十九で三百六十一ヶ所が石を置ける場所だが、最初のわずか四手で、その組み合わせはじつに一六〇億通りを超える。こんなもの、たとえスーパーコンピュータの処理能力をもってしても、最善の手を解析し尽くすのは不可能である。
碁の起源は、はっきりとは分かっておらず、二千年前の中国では、すでに庶民の遊戯として親しまれていたそうだが、きまぐれな神様が人間に教えたのではないかと、冗談交じりに言われることもある。
果ての無い最善手の探索。それが、少女に課せられた使命だった。
盤上ではホタルの光が、まるで何かを伝えるシグナルのように、明滅を繰り返す。
彼女はしばし手を止め、じっとその様子を見つめていた。
―――――十年後。
「御当主!お客様がいらっしゃいましたよー!」
今年一〇歳になったばかりの、ポニーテールの少女、獅子唐かぐらは、門から続く庭園の飛石をぴょんぴょんと進みながら、屋敷全体へ呼びかけるように大きな声を発した。
彼女の後ろにしたがい、のそのそ歩くのは、一八〇センチをゆうに超えており、丸眼鏡をかけ、三十歳に届くかどうかという、和装姿の青年。細面に、細い眉と細い両眼、大きな鼻で形づくられた、いかにも柔和な顔立ちをしている。
彼はふと、空に向かって放射状に伸びた、立派な樹の前で立ち止まった。
「やあ、この木はヤマモモか。もう少し、早い時期に来るんだったなぁ」
夏の陽光をまぶしそうに手で遮りながら仰ぎ見て、甘酸っぱい味をじわりと口の中に感じた柊木白夜は、すこし苦笑いした。
「・・・なんだ、あんたか」
なつかしい声に振り向くと、屋敷の縁側で白い足をぷらぷらさせながら、気だるそうな視線を向けている長襦袢姿の女性がひとり。ながい煙管の先から、ぷかりと紫煙を浮かばせていた。
肩まで伸びたストレートの黒髪に、眉の細い、凛とした目鼻立ち。見た目の年齢は、二十代半ばといったところ。
「はは、真衣さん。相変わらず、つれないな」
白夜は笑顔を見せたが、三日月真衣の、低血圧そうな物言いは変わらない。
「・・・一年ぶりくらいか?やれやれ。名人様が、こんな田舎へ何の用だい?」
「もちろん、君と手合わせするためさ」
ニッコリ笑いながら、右手に提げていた白く細長い紙袋を持ち上げて見せた。
「手土産は、私の故郷の酒だよ。一杯飲みながら、一局どうだい?」
「ふ・・・」
真衣は、すこしだけ口の端をゆるませると、長襦袢の裾を直しながら、すうっと立ち上がる。
「口説き文句としては、悪くない。かぐら、客間に碁盤を用意しておくれ」
屋敷の奥から、「あい」と幼い声が返ってくる。
「あんたに、屋敷の案内はいらないだろう?玄関から入っておいで」
それだけ言って、煙管をくわえながら、屋敷の中へと消えていった。
「この辺は、ずっと変わらないねえ」
床の間に掛け物と、檜扇の生け花が飾られた、二〇畳ほどの客間。開け放たれた障子の向こうには、青い空と、美しい庭園が広がっている。
碁盤を挟んで向かい合い、お猪口に口をつけながら、碁石をつまむ二人。
棋界の第一人者である柊木白夜名人の上座に座るのは、艶然とした長襦袢姿で煙管をくゆらせる屋敷の主、三日月真衣である。
「・・・そうでもないよ。私が子供の頃は、庭の川辺に蛍がいたものさ。最近は、めっきり見なくなったけどね」
脇息にもたれかかりながら、なつかしむように言う。
かれこれ五年ほどの付き合いになるが、真衣が昔の話をするのは珍しいな、と白夜はひそかに喜んだ。
「それで」ぱちりと白石を打ちながら、真衣は口を開く。
「本当は、何の用だい?まさか、本当に私と対局するためだけに、この里まで来たわけじゃないだろう?」
「・・・やっぱり、分かるかな?いやあ、まいったね」
白夜は生来の柔和な表情のまま、悪びれる様子もなく、あははと笑いながら、頭を掻いてみせた。
「神託を伝えに来たんだよ」
その言葉に、真衣は一瞬固まり、二重の整った眼差しで、じろりと白夜の目をのぞき込む。
「そう、神託だ。じつに五年振りかな。僕も、はじめは耳を疑ったけどね」
「・・・そうか。あの御方の使いが来たんだね」
「うん。一言だけ。五年後に待ち人が来るから、そいつと対局するらしいよ」
「五年後」
その言葉を反芻し、可憐な唇から、ぷかりと煙が洩れる。
物憂げに視線を落とし、盤上を眺めた。中盤に差しかかってはいるが、盤面はほとんど互角の様相である。三日月真衣もまた、名人に匹敵する棋力の持ち主だった。
しかし、
「その言い方だとまるで、待ち人というのが、私たち二人のどちらでもないみたいだね」
「・・・うん。でも、おそらくはそうなんだろう」
白夜は、少しだけ寂しそうな笑みを見せた。
「だけど、どんな人物があらわれるのか、楽しみではあるよ。きっと、誰よりも碁の神様に愛されているのだろうからね」
誰よりも碁の神様に愛された人物か。そんなやつを目の前にしたら、嫉妬のあまり八つ裂きにしてしまうかもしれないな。
真衣は、やや自嘲気味な笑みを浮かべながら、白石をつまんだ。
「侘助、お願い!一ヵ月だけ囲碁部に入って!」
「・・・は?なんだよ、いきなり」
太陽の光が肌を焼く、梅雨明け七月中旬の日曜日。
家に押しかけてくるなり、そう懇願してきた活発そうなショートカットの少女、東仙みちるに、ひょろりと背の高い、眼鏡をかけたクセッ毛頭の少年、石鳴侘助は怪訝な顔をした。
二人は、同じ近所の中学校に通う一年生で、物心ついた頃から知っている幼馴染だ。
あまりに唐突なお願い。侘助は、みちるが囲碁部に入っていることは知っていたが、彼自身は碁のルールすら知らず、興味さえ無い。
「じつは囲碁部の試合があるんだけど、メンバーが一人足らなくなったんよ。他の部から引き抜くと色々うるさいんだけど、侘助は今、どの部にも入ってないでしょう?」
石鳴侘助は現在、学校ではどの部にも所属していない。いわゆる『帰宅部』である。
小学生までは、地元のリトルリーグチームに所属し、野球をしていた。それこそ野球ばかりしていた気がするが、小学六年生の時に交通事故に遭い、利き腕に軽い痺れが残るという後遺症を負った。日常生活にはまったく支障ないが、スローイングができないので野球はもう無理と諦め、他に打ち込めるものを探しているところだ。
せっかくの中学校生活、何らかの部活をやろうとは思ってはいるが、こいつと同じ部だと、色々面倒そうだ。
「うん。断る」
その一言だけを返し、無碍なく閉められようとした玄関のドアの隙間へ、みちるは素早く足をはさみ入れる。
おいおい、まるで悪質な訪問販売だな、と侘助は舌打ちした。
「ちょ、ちょっと、躊躇なさすぎでしょう!幼馴染の頼みが聞けないっていうの!?」
「ああ」
「・・・うう、お願いよー、わびすけ―。一ヵ月だけで良いから、人助けだと思ってー」
ついにみちるは、めそめそ泣きだしそうな声を出し始めた。
侘助は、めちゃくちゃ嫌そうな顔をする。
人の家の玄関口でやめてくれ。俺が悪いことをして女の子を泣かしてるみたいじゃないか。
「こうなる前に追い返したかったのに・・・」と眉間を指で押さえながら、結局は断り切れないことを悟る。どうせ暇だから、ということもあり、押し切られるように、侘助は一ヵ月だけ囲碁部に入ることを約束してしまったのだった。