第93話 電力王の挑戦
1916年7月28日 大日本帝国 東京府 東京市 上智町 福沢邸
その邸宅は、学問のすゝめなどの著書で知られる福沢諭吉の邸宅であり、現在は養子の福沢桃介が相続していた。
教育者、思想家として知られた養父と異なり、福沢は実業家として有名だった。特に電力事業では
日本各地で水力発電所を建設、買収して、電力王と呼ばれるようになっていた。
そんな、福沢が力を入れて取り組もうとしているのが、標準軌の東海道新線の建設だった。これは文字通り、鉄道省の路線である東海道本線に並行する形での高速新線の建設だった。動力はアメリカ合衆国で3年前に開通した100マイル特急ことシカゴ=ニューヨーク-エレクトリック-エアラインレールロードと同じく電車方式とした、福沢は電力事業に携わるものとして、こうした高速電気鉄道ができる事は自らにとっての大きな利益となる、そう考えていたのだ。
そう思った福沢は、シカゴ=ニューヨーク-エレクトリック-エアラインレールロードの開通の報が伝わるとすぐに東海道電気鉄道株式会社を設立して、鉄道省に路線敷設の許可を求めたのだが、標準軌での路線敷設の許可は下りず、私設鉄道法に基づいて狭軌での敷設しか許可されなかった。
私設鉄道法において従来通りの狭軌でしか路線敷設を認めていないのは、鉄道省による将来的な買収を考えた上の事でもあり、せっかく敷設しても鉄道省に掠め取られるのではと、投資に対して消極的になる人間も少なくなかった。しかし、ここにきて福沢たちにとって追い風となる事件が起きていた。
「安田さん、動くのは政府が足踏みしている今しかないのです」
「うむ、私もそう思う…それにしても鉄道院の連中も早まったことをしたね」
「おそらく我々の新線構想がそれだけ彼らにとっての脅威だった、という事でしょう」
福沢の言葉に安田さんこと、一代で安田財閥を作り上げた男、安田善次郎は強く頷いた。
安田は福沢の計画に早くから賛同し、出資を申し出ていた一人だった。
この頃、大日本帝国を揺るがすほどの大事件が起きており、福沢たちのライバルである鉄道院はまさにその中心にいた。旧陸軍被服廠跡の払い下げに関する鉄道省、そして内閣を巻き込んだ大事件である国際寝台車会社疑獄事件だった。
そもそもの発端は福沢の言ったとおり、彼らの新線建設構想だった。
一民間企業による高速新線の建設構想に驚いた彼らは、取りあえず新設建設を延期させるとともに、自らも単なる輸送手段としてではない、新たな付加価値を生み出すべく活動を始めた。
鉄道院が目を付けたのは欧州各地で登場していた豪華列車だった。
相手が電力王と呼ばれるほどの人物であることから、今から高速電気鉄道に取り組んでも遅い、それならば一民間企業では揃えられないほどの豪華な設備を持った豪華列車を走らせて、鉄道院の威信を示すというものだった。
幸いにして、当時の欧州では未だ日本ブームが続いており、それらの観光客を主な利用者とすれば十分に採算が取れると考えられていた。
当初、国有化以前の九州鉄道が購入したブリル社製の客車、通称『或る列車』を投入する予定だった。これは当時の日本ではこれをしのぐ豪華車両は存在しなかったためだが、流石に旧式化が進んでおり、暗礁に乗り上げてしまった。
そこで、候補に挙がったのがオリエント急行を運行する国際寝台車会社との提携だった。
幸いにして国際寝台車会社の側も第一次世界大戦で大きな打撃を受けた事と、ロンドン講和会議にてバルカン半島がドイツ帝国の勢力圏とされたことから、ドイツ帝国はプロイセン国営鉄道をはじめとするドイツ各領邦の鉄道会社とオーストリア国有鉄道、ハンガリー王立鉄道、セルビア国鉄、ブルガリア国鉄、そしてイスタンブルにその本拠を置くオリエント鉄道が合同で運行するバルカン列車がオリエント急行に代わって近東と欧州を結び付け始めていたことから、新たな市場としての東洋に目を向け始めていた。
こうして、話はまとまり日本からシベリア鉄道を通って、パリへと向かう一大路線が実現すると思われたが、話は本筋の鉄道とは全く関係ない所で大きく躓く事になってしまう。
切っ掛けは国際寝台車会社が各地に建設して運営していたホテルだった。国際寝台車会社は東京市本所区にあった陸軍被服廠を移転させた跡地にホテルを建設しようとしたのだが、この陸軍被服廠の跡地の売却を巡り、鉄道院や日本政府に対して国際寝台車会社が多額の賄賂を渡していたのではないか、との疑惑が持ち上がったのだ。
この疑惑は時の総理である平民宰相、星亨にも向けられ、帝国議会では野党進歩党から徹底した追及を受けていた。
こうした状況の中で福沢たちは巻き返しを図る事になる。




