第92話 神の軍<下>
91話のタイトルを変更しました。
1916年7月11日 イギリス領アイルランド ダブリン
「本日の式典は、我々アイルランド人がイギリスの一部としての権利を勝ち取った事の象徴であり、来たるべきイギリスとアイルランドの連邦化に向けて…」
アイルランド人のみで構成された初の師団となる第10師団と第16師団の創設が祝われていた。シン-フェイン党のアーサー-グリフィスが演説をし、普段は敵対しているアイルランド議会党のリチャード-ヘイズレトンもそれを見守っていた。
この第10師団と第16師団はキッチナーによる陸軍改革、いわゆるキッチナー改革によって新たに創設された師団であった。アイルランド人による独自の師団の創設を巡ってはキッチナー内閣でも反対者が多かったが、キッチナーはこれらの師団の創設を強く望んだ。
保守党はキッチナーの先代の党首であるアンドルー-ボナ-ローがアスキス内閣が進めようとしてたアイルランド自治法案に対して強く反対し、同じくアイルランド自治法案に強硬に反対していたアルスター地域とともに自由党と対決してきたという経緯があった。それにより、保守党は主にアルスター地域からの支持を集めているのに対し、逆にアイルランドではアルスターの代弁者として嫌われていた。
その為、ここにきてのアイルランドの更なる自治容認とも捉えられかねないアイルランド人師団の創設には、党内からの反発は大きかった。しかし、キッチナーはイギリス内部での団結を強く訴え続けた。
結局、アルスター地域でも一個師団を新たに創設するという条件でまとまり、第10及び第16師団は無事に創設されたのだった。
この事はアイルランドのイギリス内での自治を求めている勢力からすれば朗報であり、更なる自治権獲得への期待も高まっていた。
それを喜ぶ人間もいれば、批判する人間もいた。
「今回の師団創設はアイルランドが勝ち取った新たな権利だと…イギリス人の良いように使われるようになっただけじゃないか」
「エイモン、ここじゃあ人が多すぎる…もう少し周りを見て」
「マイケル、君は悔しくないのか、俺たちはこれからもイギリス人の奴隷のように使われ続けるんだぞ。一番悔しいのはそれを同じアイルランド人がそれを喜んでいるという事だ」
「いや、別に悔しくないわけじゃないが…もう少し声を小さくしてくれ」
マイケル-コリンズは友人であるエイモン-デ-ヴァレラの不用意な発言を注意したが、デ-ヴァレラはそれに対して見当違いの返しをしてきた。コリンズがデ-ヴァレラに声を潜めるように促すと、デ-ヴァレラは初めて周りに人がいたのに気が付いたかのように、慌てて辺りを見回してから声を潜めた。
2人はアイルランド人の活動家の中でも新世代に属する人間だった。
つまりこれまでのアイルランドの自治あるいはイギリス国王の下での同君連合化を終着点とするアイルランド議会党やシン-フェイン党のグリフィス派などに対して、共和主義に基づいたイギリスとは全く違うアイルランド人の共和国としての完全な独立を求める共和主義者だった。
「…アイルランド師団はアイルランドとイギリスのためだけではなく、多くのキリスト教徒のためにこそ戦う事になるでしょう。知っての通りオスマン帝国は多くのキリスト教徒の同胞たちを虐殺しているとのうわさが…」
「マイケル-オー-フラナガン、アイツもいたのか、アイツはアルスターの分離を容認した裏切り者だぞ」
「…エイモン」
会場に目を向けると、政治家たちに代わって、カトリック教会の司教が演壇に上がっていた。
その姿を見たデ-ヴァレラは思わず毒づき、それをまたコリンズが止めていた。
マイケル-オー-フラナガン。グリフィスなどと同じくシン-フェイン党に属するローマ-カトリック教会の司教だったが、彼はアルスターとアイルランドの分離を前提にしていたところが他の活動家たちとは異なっていた。自治派、独立派を問わず存在した、いずれはアルスターを回収できるはず。という意見を、フラナガンははっきりと否定した。アルスターとアイルランドは余りに文化的な差異が大きすぎ、また、アルスターの側がアイルランドではなくイギリスとしての意識を強くもっている事から、同じ地域にありながら別個の国として成立したイベリア半島のスペインとポルトガルの例を挙げ、統合は不可能だと断じた。
そのため、デ-ヴァレラのような民族主義的な人間からはフラナガンは敵視されていた。
「…さあ、皆さん祈りましょう。どうか、戦場に赴くアイルランドの戦士たちに神の祝福があらんことを」
会場に祈りの言葉が響き渡った。敬虔なるカトリック教徒の多いアイルランド人たちは皆、神に祈りをささげた。
後に、アイルランド師団はその強固なカトリック信仰というイギリス軍内部での特異性と戦場における勇敢さから神に祝福された師団として、その名は広く知られようになる。




