第9話 日仏協商
今回は説明文的な文章ばかりになってしまって、小説とは言えないかもしれません。
1902年1月30日 フランス共和国 パリ
その日、日本駐仏特命全権公使本野一郎とフランス外相テオフィル-デルカッセによって日仏協商の調印式が行われ、大日本帝国とフランス共和国は準同盟関係となった。
日仏協商の構想は第2次台湾出兵にまで遡る。
清国への火事場泥棒的な日露両国の進出に対して、イギリス、アメリカ、ドイツが抗議する中でフランスはそれを一歩引いた立場で見ており、抗議も形式的なものに留めていた。
原因はフランス資本のアジアにおける不振だった。
清国においてはイギリス資本との競争を前に敗れ、露仏同盟の証しともいえるロシア投資にしても近年ではドイツ系企業との競争によりフランスは劣勢になりつつあった。
あわよくば、日露両国を利用して清国を巡る緊張状態を作り出し、自らがその仲介者として振る舞う事により新天地たるアジアにおいてフランス資本に確固たる地位を築かせるつもりだったのだ。加えて言えばロシアが未だに鉄道建設のための資本そのものはフランスに頼っていたこと、日本が占領しようとしていた台湾が元々自国が目をつけていた地域であり、日本には現状その開発の資金が不足していると考えられたことから、満州、台湾の占領はフランスの利益となる可能性があった。そのため、日本には領事裁判権撤廃と関税自主権の回復と引き換えに初めて日仏協商が提案された。
思いのほか早くロシアが対立を回避する方向に動き始め、日本がさっさと折れてしまったため、露清妥協において自国資本の入っていた東清鉄道の建設を認めさせるだけで精いっぱいだったが、こうして1度頓挫したはずの構想は、1年もたたないうちに再び注目されることになるのだった。
きっかけは朝鮮での鉄道利権争いだった。
当時の朝鮮では王妃である閔妃とその一族が宮廷で大きな力をふるっていたのだが、ここにロシアが接近し、首都漢城府と仁川を結ぶ鉄道の敷設許可を与えた。このことに日本は強い危機感を覚えた。
当時日本はロシアと朝鮮南部馬山の租借を巡り、対立関係にあり朝鮮においてロシアが優位になる事において強い危機感を持っていて、一時は日露両国の衝突は間近だと思われた。
ロシアがこうした朝鮮への投資を繰り返した背景にはロシア国内で勢力を伸ばしていたドイツ資本の存在があった。ドイツ政府にしてもロシアがヨーロッパからアジアへと目を向ける事は露仏同盟の無効化を意味し大きな価値があるものだった。
一方これに危機感を抱いたのはフランスだった。
ロシアにおけるドイツ資本の伸長を阻止するだけではなく、ロシアの目を再びヨーロッパへと向けさせなければならなかった。
デルカッセは自らはロシアに赴きつつ腹心のモーリス-パレオログに本野公使との交渉を任せた。
デルカッセは皇帝ニコライ2世の説得に成功し、朝鮮の中立化を条件に日本との妥協を承諾させた。日本も領事裁判権撤廃と関税自主権の回復は魅力的だったため、フランスから伝えられたロシアの条件を飲んだ。こうしてフランスはロシアをヨーロッパへ引き戻す事に成功した。
日本は領事裁判権撤廃と関税自主権の回復を達成した事を喜びつつ、束の間の平和を享受していた。