第73話 近東及び巴爾幹問題調査会
1915年12月1日 大日本帝国 東京
この日、東京では軍人や政治家、経済人などが集まって『近東及び巴爾幹問題調査会』が開かれていた。
名目上は中東とバルカン半島での動乱について研究し、報告する会となっているが実際にはその枠を超えて、大日本帝国の今後について構想を練り、議論を重ねていた。参加者の多くは列強の一国として日本がどう振る舞うべきか、という事を考えており議題はそのための海外情勢の分析から国家改造の提案まで幅広いものがあった。
「では、オスマン帝国の実権は今まで通り守旧派が握っているということですか」
「ええ、憲法が復活し議会が開かれて、あの青年トルコ人たち…統一と進歩委員会といいましたか、彼らも公に出てこれるようにはなりましたが、先帝アブデュルハミト2世による弾圧は予想以上に激しかったようで、未だに政権を取るには至っていないようです。対露開戦の噂についてはなんともいえませんな」
「山田さん、ありがとうございました」
イスタンブルに長年滞在し、オスマン帝国情勢に詳しい山田寅次郎が報告を終えた。彼はイスタンブル滞在時に多くの人間とかかわりを持っており、それ故にイスタンブルを離れた今でもオスマン帝国に関する最新の情報は、逐一彼の元に知らされていた。
「ペルシアでも反乱が続いているようですな」
「南部のアラブ人、それにギーラーン地方を拠点とする立憲派、などですか」
「ロシアやイギリスは介入しないのかね」
「両国ともに国内問題で手いっぱいですからな」
「たしか、ペルシアはドイツが利権を持っていたはずだが、そっちはどうかね」
「ドイツも今やヨーロッパしか見ていないようですからね」
「そのとおり、問題はヨーロッパにある。再びあのような大戦が起きるか否か、最も重要なのはそこだ」
「山本さん…」
山田の報告を受けて、議論が盛り上がるが山本と呼ばれた人物が問題点を要約して見せた。
山本条太郎。三井物産で出世街道を歩んだのち、半官半民の東洋拓殖へと移り、そこで頭角を現している人物だった。
「欧州ではドイツ帝国のイタリアへの宣戦布告後、フランスは積極的にイタリアへの支援をしており、両国の間で緊張が高まっています。また、前大戦で中立を守ったイギリスではこの所、反オスマン帝国の世論が盛り上がりを見せていて、一部では対ドイツ開戦やむなしとの声もあるとか。私見ですがこのまま英独どちらかが引き下がらなければ、次の大戦もあり得るかと」
山本の声を受けて、出席者の中でもまだ若い男が欧州情勢を要約し、私見を述べた。
「…森君、清国の様子はどうだったかね?」
「はい、漢人ブルジョワジーの間では、清国内に進出している外国資本への不満が長年にわたって渦巻いており、それが清国政府への不満へと変化しつつあります。そういったことから、国会内での漢人への議席配分を増やすように求める運動が盛んになっているようです」
山本に森君と呼ばれた男は続けて清国情勢についても述べた。その男、森恪は山本の三井物産時代の後輩にあたり、山本と同じ上海支店時代には山本の手足となって、仏領インドシナでおこった新黒旗軍の乱とそれに関連する清国政府の動きについて情報を集めていた。その時の目覚ましい働きぶりから、山本は森の事を高く評価していた。
「仮定の話にはなるが、将来、清国政府がフランス革命のような革命によって倒されような日が来ると?」
「それに関してはわかりかねます」
「いえ、清国に関してはその可能性は低いように小官は愚考します」
山本が仮定の話と断ったうえで清国政府が倒れる可能性について森に聞き、森は言葉を濁したが、一人の陸軍軍人が清国政府が倒れる可能性についてきっぱりと否定した。
「…陸軍中尉、廣田弘毅であります」
名前を名乗っていなかったことに気が付いた軍人が自らの名を告げた。廣田は貧しい家庭の出身であり、外交官への道と迷った末に学費がかからない陸軍士官学校を志願し軍人となり、情報将校としての道を歩んでいた。
「廣田中尉、理由はなんですかな」
「はい、清国には確かにブルジョワジーによる不満が渦巻いています。しかし、一方で各地の地域経済の実力者である彼らの多くは清国の官僚や軍人に取り入る事で地方の政治や経済を自らの都合のいいように動かしています。そのため地方の民衆の間ではこれらブルジョワジーは敵視されています」
「少数のエリートによる反乱というのは…」
「もちろん民衆による革命ではなく、彼ら癒着した軍と政財界による反乱の可能性は残っていますが、これも実現性は低いでしょう。現在の清国経済は各地域ごとの域内経済とは別に国家全体が結びついた大規模な国家経済が存在しています。反乱を起こせばその結びつきが破壊される事を意味しています。すくなくともブルジョワジーにとっては面白い事ではないでしょう」
「よくわかりました…そういえば、清国と言えば近頃、海軍の方で何か清国と接触していると聞きましたが」
「…初耳ですね」
「なるほど、そうですか」
海軍の動きは廣田も知らないことだった。一体、海軍と清国の間に何があるのか、それが判明するのはもう少し後の事になる。




