第7話 北清事変(下)
1900年8月15日 大清帝国 北京 紫禁城
北京は今や風前の灯火だった。
南京において『正統な』大清帝国の存在とその改革姿勢をアピールし直ちに列強各国と日本の承認を取り付けた光緒帝の南京政府軍は天津に上陸、防衛の要であった大鈷砲台は皮肉な事に清国の誇る2大戦艦である定遠、鎮遠の砲撃により瓦礫の山になった。
その後は英、仏、米、伊、露、日、独、墺の陸戦隊ないし陸軍部隊の8カ国連合軍と共に進撃する南京政府軍を前に北京郊外にて激しい戦闘が続いていた。さらに北からロシア陸軍が満州、モンゴルを占領しながら南下を始めていた。
せめて、北京に籠城する公使館地区に逃げ込んだ外国人及び中国人を皆殺しにして報復をしようと試みたが籠城を指揮する柴五郎中佐の巧みな指揮の前に未だ攻め落とせていなかった。
義和団を差し出しての講和を模索して見たものの列強各国及び日本からの回答は「正統政府たる清国政府にその処置を一任する」というものであり、自分たちこそ正統政府であるという自負があった北京の西太后派にとっては屈辱的な回答が届いたが、それでも一縷の望みを託して天津に陣を構えていた光緒帝の下へ使者を送ってみたが、帰ってきた答えは「西太后一派を逆賊として誅す」という言葉のみだった。
「終わりじゃ、全てが終わりじゃ、私はまだ死にたくない、早う、あの洋夷と逆賊らの手の及ばないところへ逃げるのじゃ」
西太后は紫禁城の中で喚いていた、普通ならばそこで何らかの移動手段が用意されたことだろう。だがその日は違った。逃げ出そうとした西太后を待っていたのは手に武器を持った暗殺者たちの群れだった。こうして、大清帝国を陰から支配し続けた西太后はあっけなくその生涯を終えたのだった。
だが、西太后が死んだところで完全に暴走状態にあった義和団が止まるわけでも無く、掃討戦はその後も続いたのだった。
その後、列強各国及び日本の連合軍と再統一を果たした光緒帝率いる新生清国との間で正式に首都となった南京にてその戦後処理に関する議定書が調印され、清国政府による公式の謝罪と責任者への適切な処罰、被害者への見舞金と弔慰金、被害にあった施設への賠償、排外主義団体の結成禁止と構成員への厳罰、各国公使館とその周辺地域を公使館区域として独自の駐兵権と警察権を認める事などが定められた。
この南京議定書を巡っては列強各国ではドイツなどを中心に生ぬるいという声が上がり、清国内部でも全てを西太后一派のした事として、清国政府による公式の謝罪を拒否しようとしたり、公使館区域は新たな租界の設置にあたるとして撤回するように要請したが、最終的には双方ともに原案通りに合意に至った。清国と連合国参加国の中でもアジアに強い関心を持つ英、仏、米、独が共通して警戒すべき事件が起こっていたからだった。
その事件とは、連合軍参加国にしてその主力を担ったロシアによる満州地域駐屯問題とアジアからの連合国唯一の参加国となった日本による第2次台湾出兵だった。