第6話 北清事変(中)
一応次回で北清事変の回は終わる予定ですが、収まり切らなかった場合には改題します。というかもう北清事変っていうレベルでもないな
1900年7月1日 大清帝国 南京
列強各国、またはその他の国の外交官、唐才常をはじめとする革命組織自立会の会員たち、今や北京の西太后一派から皇帝を拉致した逆賊とされた聶士成、丁汝昌ら武衛軍、北洋水師の面々、そしてあまりよく分かってなさそうな一般大衆が儀式を見守っていた。
「こ、ここに大清帝国の南京への遷都と大清帝国国会の開設を宣言する」
「皇帝陛下!万歳、万歳、万々歳!」
光緒帝が緊張の面持ちで発した短い言葉に対し、唐才常、聶士成、丁汝昌らが万歳で答えた。
そもそもなぜ光緒帝がこのような宣言する破目になったかといえば唐才常ら自立会の存在があった。
当初は脱出を手引きした聶士成、丁汝昌にしても光緒帝を西太后の手の及ばないところまで逃がし、列強諸国の鎮圧軍と共に北京へと舞い戻って大清帝国を復興させるという考えだった。
だが、唐才常ら自立会が接触を図ってきたことで事態は大きく動き始めた。元々、唐才常らは光緒帝を前面に立てた形での大清帝国の改革を進めるつもりだったのだが、自立会内部では満州族支配からの脱却という考えも根強く、結局、なし崩し的に皇帝の権力を制限した立憲君主制が成立してしまう。
光緒帝は自身の権力が制限される事に不満を抱いたが、聶士成と丁汝昌がそれぞれ陸軍大臣、海軍大臣となり、統帥権の独立という形で中華地域における最強の軍事力をその手中に収めていた事や南京政府貴族という形で地元有力者を取り込んだ事により一応の権力基盤はできていたため、側近に不満を漏らす以外の事はしようとはしなかった。
この宣言が与えた影響は大きかった。西太后はすぐさま光緒帝の廃位と宣言の無効を通告したが、列強諸国は認めようとはしなかった。西太后がいかに清国内の実力者であったとしても正式な皇帝は光緒帝ただ一人だったからである。
中国国内の漢民族革命派も満州族の王朝である清との妥協ともいえるこの宣言に対し怒り狂ったが、最強の軍事力を清国南京政府側が持っているのに対し、革命派は弱体であり保身を図った各地の総督により次々と逮捕されるか、亡命を余儀なくされていった。革命派という正体のわからないものよりも大清帝国の威光にひれ伏す事を総督たちは選んだのだった。
後の歴史家にはこの時第二の清仏戦争あるいは清とロシア間の戦争などの外国勢力との戦争によって清国が疲弊した状態で、かつ外国からの支援があれば民族革命が可能だった、というIFの歴史論を唱える学者もいるが学界からは無視されている。