第53話 大清帝国戦車事始
1914年12月7日 大清帝国 南京郊外
「これは…本当に動くのか」
光緒帝は目の前の物体に対してそんな言葉を述べた。
前に一輪の車輪を持ち後部には履帯があり、その周囲は芋虫を連想させる装甲で覆われ、砲塔からは機関銃が突き出していた。開発に参加したアメリカ人技師によれば問題なく動くという事だったが、どうにも不安に感じられてならなかった。
「陛下、ご安心ください」
「うむ…そうか」
この物体こそ清国初の戦車…とされているが実際には、アメリカのクラレンス-レオ-ベスト社が開発したトラクターに適当に装甲を取り付けただけのものだった。
CLB75と名付けられたこの戦車は開発当初にアメリカ陸軍での採用を勝ち取るべく試験を受けたが、当然このようなずさんなものが採用されるはずもなかった(競合するホルト社からのロビー活動が原因だったのではないかと言われているが、実際に性能面でホルト社の方が優秀だったのは事実であった)。
が、困った事にクラレンス-レオ-ベスト社はすでにアメリカ陸軍での採用を見込んで生産を開始していた。
クラレンス-レオ-ベスト社としては欧州で戦車が実戦投入されて5年も経っているのにアメリカ陸軍は未だに一両の戦車も保有していない。ならばアメリカ陸軍は絶対に採用する筈だと、そう思っていたのだ。だが結果としてクラレンス-レオ-ベスト社はホルト社に敗れてしまった。
在庫処分に困ったクラレンス-レオ-ベスト社はまず内戦中のメキシコに目を付け…失敗した。
注文自体は政府軍、反政府軍双方から入っていたのだが、アメリカ政府がそれを許さなかった。リンカーン政権の打ち出した政策はメキシコ内戦に関してはアメリカは中立の立場を取るというものだったため、それに真っ向から反するような行動に関しては流石に政府から警告を受けた。
そこで次はアジアに目を向け、取りあえずオスマン帝国に少数が購入されたのだが、戦車は輸送船ごとギリシア海軍に拿捕されてしまい、オスマン帝国からの代金は未払い、ギリシア政府はクラレンス-レオ-ベスト社からの補償の要求を突っぱねたために、むしろ負債が余計に増える結果となった。
そうした、クラレンス-レオ-ベスト社に救いの手を差し伸べたのが清国だった。
実は清国陸軍も戦車の導入を望んでいたのだが、当時清国を支援していたイギリス、ドイツ共に中々自国での戦車開発が上手くいっておらず、清国に対して支援するほどの余裕は無かったのだった。
その為、多少低性能であったとしても、取りあえず戦車というものになれるための練習台にはいいだろう程度の考えで購入を決定したのだった。
もちろんそこには別の事情もあった。その背景には当時清国及び日本で知識人層を中心に唱えられつつあった『東亜非戦論』の考えがあった。これは第一次世界大戦の惨禍によって科学技術のみに頼る欧州諸国が荒廃した事を他山の石として、東洋的道義国家である日清両国が連携して平和的な新秩序を形成するという何とも夢想的な提案だったが、欧州諸国からの圧迫を受け続けてきた清国では特にこの考えは支持されるものがあった。
その為、当時の清国では軍事予算が削減される傾向にあったため比較的安上がりな戦車を求めていたのだった。
何はともあれ清国初の戦車は無事に試験を終えて採用される事になったのだった。
長らく投稿期間が空いてしまい申し訳ありませんでした。
投稿しようと思っていた新ネタですがまだちょっと時間がかかりそうです。次のお題次第では架空戦記創作大会の時に書くかもしれません。




