第5話 北清事変(上)
1900年 大清帝国 北京郊外
「まだなのか、このままでは追っ手につかまってしまうぞ」
「今しばらく、今しばらくの辛抱にございます」
闇夜、護衛を引き連れた二人の男が歩いていた。
一人は薄汚い恰好をしていたが、そのいかにも歩きなれていなさそうな足取りからその男が普段はあまり長距離を歩く必要のない身分にいる事がわかった。対して、もう一人はこうして歩くのにも慣れているようで苦も無く歩きながら後から来る薄汚い男に丁寧な励ましを送りながら慎重に進んでいった。
「見えましたぞ、定遠です。よくぞ辛抱なされましたな。陛下」
「う、うむ、やっとか、だが朕はもう疲れた。功亭、早う寝たい」
疲労困憊の主君を見ながら字を功亭という武衛軍指揮官、聶士成は無事に逃げ切れた事と清国の未来が守られたことに安堵して微笑んだ。
発端は山東省でのドイツによるキリスト教布教だった。
儒教の聖地である曲阜での布教に対し地元住民は反発。やがて反キリスト教的なカルト武術団体義和団を結成各地のキリスト教施設に対し襲撃を仕掛けるようになった。
これに対して大清帝国内部では対応が分かれていたが、1900年6月10日になるとついに義和団は北京に入城。大清帝国軍内部でもそれに同調するものがあらわれはじめた。
特に厄介なのが大清帝国の最高権力者ともいえる西太后がこの義和団を利用して光緒帝の排除を画策していたことだった。大清帝国の変革を望む光緒帝の存在は目障りであり、義和団による混乱を利用して廃位に追い込み光緒帝の従甥、愛新覚羅溥儁を擁立しようと考えていた。
しかし、この西太后の意思とは関係なく事態は暴走を始める。アヘン戦争以降溜まりに溜まった列強各国への不満は尋常なものではなく民衆が一つにまとまっている今だからこそ列強各国を叩くべきという声も高まった。ドイツ式教練を受けた新式陸軍である武衛軍と東洋最強の北洋水師の存在がそれを後押ししていた。
一方で、そうした動きに反発も多数あった。
外交に長く携わってきた李鴻章、頼みの綱と目されていた武衛軍の指揮官の一人聶士成、そして北洋水師を預かる立場にある丁汝昌だった。
三人は西太后の説得が失敗に終わると光緒帝と接触を取りながら事態の打開に動き出したが、光緒帝の側近でありながら義和団を利用しようと考えていた李鴻藻が反発し、西太后に対して光緒帝に叛意あり、と知らせた。これを知った西太后はすぐさま光緒帝を監禁するも聶士成によって助け出され、定遠へと乗艦したのだった。
大清帝国は大きな転機を迎えようとしていた。