第46話 7月危機〈1〉
1914年7月1日 ドイツ帝国 ベルリン
「では、どうしても参戦はしてもらえない、と」
「はい、義勇兵の派遣や兵器類の売却等は行いますが」
「何故です。先の大戦では我が国の将兵が多くの犠牲を払ったことも、その犠牲があってこその勝利であったという事もご存じのはずだ。なのに何故」
「…勝利ですか、何が原因かと言われればまさにその勝利が原因でしょうな。ドイツは疲弊しているのですよ。手に入れた領土は犠牲に対しては少なすぎ、国内対立の表面化によって政治的な混乱は大戦中から改善するどころか、ますます酷くなるばかり。最近では社会主義者などという連中が跳梁跋扈する始末です。少なくともあと10年は戦争は無理でしょう」
「そんな…」
オーストリア=ハンガリー帝国大使シュジェニィ-マリッヒ-ラースローが呆然とするのをドイツ帝国外相ゴッドリープ-フォン-ヤーゴーはただ見ていた。
発端はオーストリア=ハンガリー帝国がオスマン帝国側に立っての参戦の見返りとして得たボスニア=ヘルツェゴビナ併合記念の閲兵式に参加していたフランツ-フェルディナント大公が、セルビア王国の過激派組織黒手組に所属するガヴリロ-プリンツィプによって暗殺された事だった。
オーストリア=ハンガリー帝国に対し好意的であったヤーゴーとしてはオーストリア=ハンガリーの側に立っての参戦を熱望していたが、第一次世界大戦後に獲得した領土の経営を重視する帝国首相テオパルト-フォン-ホルヴェーク-ベートマンはこれを拒絶した。しかしこれは同じくオーストリア=ハンガリーの側に立っての参戦を望んでいたドイツ軍部には面白くなく、結局、妥協案として義勇兵の派遣も認められた。
こうした事態に際して皇帝ヴィルヘルム2世が何をしていたかと言えば、特に何もしていていなかった。
ヴィルヘルム2世は第一次世界大戦の第2次ヘルゴラント海戦において弟のハインリヒ-フォン-プロイセンが戦死した事により大きな衝撃を受け、政務に関して無関心となっていった。
しかし、皇太子ヴィルヘルム-フォン-プロイセンは君主としての資質について、周辺から懐疑的に思われていたこともあり摂政就任はならず、ドイツ帝国は名目上だけとはいえ絶対的な権力者を欠いたまま『7月危機』に対応せざるを得なかったのである。
こうした事情は国外には厳重に伏せられてはいたが、ドイツ帝国の歪は肥大化を続けることになる。
1914年7月13日 ロシア帝国 ペトログラード
「やはり、開戦は避けるべきか」
「はい、陛下。確かに我が国はスラヴ民族の盟主、それは間違いはありません。しかし、例えドイツが動こうとも我々が動くべきではない、と愚考いたします」
開戦の是非についてのニコライ2世からの下問に対し、ロシア帝国首相兼内務大臣のピョートル-アルカージエヴィチ-ストルイピンは率直に述べた。
「そうか、そういえば久しぶりにヴィリーから手紙が届いたよ。もう手紙を送り合う事など無いと思っていたのだがな」
「陛下、失礼ですがどのような…」
「私もヴィリーも同じ言葉を最後に書いたよ。『我が国と貴国の友好が永遠に続くように』とね」
ヴィリー、つまりドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から、ニコライ2世に手紙が送られたと聞いてストルイピンは警戒したがニコライ2世の言葉を聞いて安心した。これでドイツが動く事は無い、となれば…
「陛下、祈祷師殿についてお話があります」
ストルイピンの言葉にニコライ2世はまたか、と思いながらも話を聞く事とした。ラスプーチンが自身の影響下にあるアレクサンドル-ドミトリエヴィチ-プロトポポフを内務大臣とし、ストルイピンから内務大臣の座を奪おうと画策しているという、『噂』は宮廷内で知らぬ者はいなかった。
それだけならばよくある権力闘争だったが、ストルイピンは背後にゲオルギー-アポロヴィチ-ガポン司祭とエヴノ-フィシェレヴィチ-アゼフがいると確信していた。
アゼフの属する社会革命党は第一次世界大戦の終結に伴い、放棄すると見られていたテロ活動の中止を継続していた。スイスに亡命したボリシェヴィキのレーニンらによって大いに批難されたが、テロ活動部門であった戦闘団の人員から信頼の篤いアゼフが一人、一人説得に回った結果、離党したものは少数にとどまっていた。
一方、ストルイピン本人が自身の後継者にと考えていたセルゲイ-ヴァシリエヴィチ-ズバトフはバクーをはじめとする各地で労働者の組織化と政治的隔離に成功していたが、当局の目を掻い潜っての活動家の潜入や逆にそうした活動がおとなしくなったことにより、これ幸いと雇用主の側が過剰な労働を求め、それに反発した労働者によるデモ、ストライキが起こるという事もあり、それなりに問題が起きていた。
そうした衝突は全体からすれば少数だったが、問題を起こしてしまった側は自らの失態を隠すため、騒乱の種としてズバトフによる労働者の組織化を挙げ、ズバトフは最早ストルイピンの庇護無くしては立ち行かなくなるほどに孤立していた。
ラスプーチンがプロトポポフを内務大臣候補として推薦してきたのはその時だった。
ストルイピンは全てがラスプーチン、ガポン、アゼフの陰謀によるものであったと誤解した。だからこそ、ストルイピンはニコライ2世に対し、ラスプーチンの追放を進言し続けていた。自分の推し進める改革こそがロシアを救うと信じて。
汎スラヴ主義の盟主、ロシア帝国にはもはや他国への介入の余裕などは無かった。
あったのはいつまで続くとも知れぬ政争だけだった。




