第40話 セルクル-プルードン
1912年7月13日 フランス共和国 パリ
「我々は売国的共和政治に対し断固として戦いを挑むものである。諸君、共和制の本質はヴァンデで虐殺を行ない、リヨンを燃やしたジャコバンの時代から何も変わっていない。彼らは諸君らの味方を装って近づき、諸君らの家族を害さんとするのだ。我々は今こそ悪しき共和制のくびきから逃れ、由緒ある王の帰還を為さなければならない」
先ほどから演説を行なっている男は名をジョルジュ-ヴァロワといい、セルクル-プルードンの幹部だった。
セルクル-プルードンは無政府主義者ピエール-ジョセフ-プルードンの理論をもとに共和制廃止と王政復古、国家的な労働組合主義の導入を訴える政治団体であり、構成員は右翼から左翼まで幅広かった。
「ふう、こんなものかな」
「お疲れ様です。ヴァロワ」
「ああ、ありがとう。今日は何人かな」
「…4,50人…あ、いや100人はいたかもしれません」
「…そうか、モーラスが見たら何を言うかな、いや、こんな話はここまでにしよう。ところでいよいよだな」
「あ、はい、1週間後だそうです」
「そうか楽しみだな」
演説を終えたヴァロワは支持者が少ない現状を憂いながらも、未来に向かって希望を抱いていた。もうすぐ我々の求めた『真の王』と会えるのだから。
セルクル-プルードンは元々オルレアン家による王政復古を訴える政治団体アクシオン-フランセーズとつながりがあり、一時は協力関係にあった。
だが、セルクル-プルードンが労働者を中心とした経済体制である労働組合主義を導入し、ブルジョワジー打倒を目的とするなど左翼的な側面を持っていたのに対し、アクシオン-フランセーズは中世のギルドのような同業者組織の復活により階級闘争を抑止する方向であったために、アクシオン-フランセーズの指導者シャルル・モーラスは徐々にセルクル-プルードンを敵視するようになっていた。
また、セルクル-プルードンは王として擁立しようとしていたオルレアン家からもよく思われてはいなかった。
元々、オルレアン家は立憲君主制による王政復古を目指しており、そういう意味ではアクシオン-フランセーズですら有難迷惑のような政治団体だったのに、ブルジョワジー打倒などを掲げるセルクル-プルードンなどはオルレアン家の名を騙って革命運動を行なおうとする危険な団体だった。
こうして、王政復古を訴える政治団体であったのにもかかわらず、セルクル-プルードンはオルレアン家から絶縁されてしまう。
流石に絶縁宣言は大きな衝撃だったが、かといって活動をやめる訳にもいかず、途方に暮れていた時にヴァロワがもう一つの選択肢を思いついた。ブルボン家による王政復古である。
フランスのブルボン家の直系は1883年に途絶えていたが、一部の支持者たちは1713年のユトレヒト条約によるスペイン-ブルボン家のフランス王位放棄を認めず、スペイン王位請求者であったフアン3世の子孫をフランス王として迎え入れようとしていた。
ヴァロワは当時の王位請求者であるアンジュー公ジャック-ド-ブルボンに手紙を送り、セルクル-プルードンの活動について伝え、活動に加わるように求めた。
意外にもアンジュー公はすんなりと承認した。実は、アンジュー公は赤い王位請求者と言われるほど左派的な人物でありセルクル-プルードンの活動に興味を抱いたのだった。
こうして、セルクル-プルードンはアンジュー公の下で更なる発展を遂げていくのだった。




