第327話 傀儡のおわり
1945年3月17日 シャム王国 ラーンナー王朝 チェンマイ
(どうすればいい…私はシャム人だが、ラーンナーの王でもある)
シャム王国の朝貢国というよりは、ただの傀儡国家であるラーンナー王朝の王であるケーオ-ナ-チェンマイは悩んでいた。シャム王国の北部に位置するチェンマイは古い歴史を持つ都市であり、その歴史はこの地を治めるラッタナティンサ王国とも呼ばれるラーンナー王朝とともにあったが、ラーンナー王朝自体はまずビルマに敗れて独立を失い、その後シャムの助けを得て独立を回復するビルマとの緩衝国となることを強いられた。
その後、シャムのチャクリー改革で中央集権が進むと遂にラーンナー王朝の王権すら名目上のものとなっていき何れは完全に廃止されるのだろうと思われたが、そうした予想に反して未だに残っていた。
一見、歴代のシャムの王たち、中でも立憲派の反乱を鎮圧し親衛隊である虎部隊をさらに発展させて国民に愛国心と集団意識を叩き込んで強いシャムを作ろうとするラーマ6世およびその後継者であるラーマ7世の政策に反するようだが、理由はごく単純だった。そうした国民化には金がかかるからだった。
シャム本国ですら教育の充実がなされていないにも関わらず、特に他国からの侵略に直面しているわけでもないのに朝貢国にまでその手を広げたくはなかった。もちろん、ラーマ6世の行なっていた華人追放政策を支持していたフランス共和国などは借款を持ち掛けていたが、あくまで緩衝国家としてふるまうことで独立を維持していたシャムはそうした過度の依存を避けようとしており、結果としてラーンナー王朝は放置された。
だが、近年は事情が変わっていた。
シャムにとって衝撃的だったのはイギリスの強い影響下に置かれているとはいえ隣国のビルマにおいてコンバウン朝が復古したことだった。イギリス領インド帝国の再編という大きな流れの結果として行なわれたかつての敵国であるビルマ王国の復活はシャムに大きな衝撃を与えた。さらに問題だったのがラーンナー王朝領においてインド資本が近年、需要が増えつつあるボンベイコクタンのプランテーションの開発に乗り出していたことだった。これはビルマにおいて反インド資本運動が高まりを見せる中でビルマに代わる産地としてラーンナー王朝に目を付けた結果だった。そしてシャム側はこうした進出に危機感を抱きつつも有効な手を打てていなかった。かつて、ラーマ5世の時代にイギリス資本のチーク材の伐採によってラーンナー王朝とイギリスとの間で外交問題となった際にラーマ5世がシャムを守るためにイギリスの優位をラーンナー王朝に認めさせており、インド資本の進出を抑止することはイギリスとの紛争を招くことにつながるのではないかとの懸念から進出を黙認するしかなかった。
結果として、ラーンナー王朝は経済的にはシャムからの自立を果たした。政治的には無駄な紛争を望まないイギリスの思惑もありシャムの従属下に置かれ続け、シャム側はビルマとの緩衝地帯という役割をラーンナー王朝に担わせつつさらなる近代化を志向したが、こうした経済的な独立により文化の異なるシャム北部の文化が保護された結果として、シャムとは異なるアイデンティティを得たラーンナー王朝は事実上の独立を果たすまでになるのだが、それはまだ先の話だった。
1945年4月3日 フランス共和国保護領チュニジア君侯国 ケルアン
その日、フランス保護領チュニジアの古都ケルアンにはフランス共和国の首相のアンリ-オーギュスト-ドルジェール、イタリア王国首相ラウロ-アドルフォ-デ-ボシス、そして父であるアッバース-ヒルミー2世の病死によりアラブ帝国大アミールの地位を継承したムハンマド-アブデル-モネイムの姿があった。
「今日、第4の聖地は再び我らムスリムの手に戻った。この記念すべき日を、そしてそれを成し遂げたフランス共和国政府の英断を我々は決して忘れることはないだろう」
モネイムはそう演説を締めくくった。
この日、フランス保護領チュニジアの解体とその後に関する会議が終幕を迎えた。元々チュニジアを巡ってはフランスによる強引な保護領化がイタリアの反発を招き、ベルリン会議以来の長きにわたって両国間で外交問題の原因になるような土地だったが、近年ではそれに加えて名目上ながらも存在し続けていた君侯を旗頭とするアラブ系住民の自治拡大と独立を求める動きも活発化していた。
そこで、ドルジェールはチュニジアにおける内外の問題を同時に解決しようと考えた。現在のフランス保護領チュニジア君侯国を解体し、フランスおよびイタリアの共同統治領とし、一方でアラブ系への配慮してメッカ、メディナ、イェルサレムに次ぐ第4の聖地として知られるケルアンに関してはハーシム朝アラブ帝国領とするという案だった。
どちらもフランス国内から激しい反対を受けたが、共同統治という統治形態に関しては現在はアメリカ領となったヌーベルヘブリティーズ諸島におけるイギリスおよびフランスの共同統治という形で行なわれた実績があったし、ケルアンの飛び地化についても石油資源を有するアラブ帝国の懐柔のためには必須であるとの意見の前には徐々に反対は少なくなっていった。
もちろんこうした意見はドルジェールが支持者に言わせていたものが多かったのだが、危険な賭けともいえる決断にドルジェールが踏み切った背景には昨年の10月に発布した新憲法の存在があった。この新憲法では都市及び地方の地域別選挙制度や議会閉会中においても国民投票により法律の制定、廃止、公職者の解職が行なえるなどの特色のある憲法だった。
前者はデンマーク王国において採用されているもので都市部においては政党名簿比例代表制、地方においては単純小選挙区制を用いるという独特な選挙方式であり、後者はフランス革命時のジロンド派の憲法草案にまで遡れるもので、近年では哲学者のエマニュエル-ムーニエが提案していたものだった。特にムーニエとムーニエが提唱した人格主義は旧来の自由主義でも、仇敵ドイツの社会主義とも違う共同体的でありながら個々の人権を尊重した哲学として流行しており、多くのフランス人に受け入れられていた。
この新憲法下においてドルジェールは自らの勢力が強い地域を地方として分類して自らの知名度を利用して選挙戦を有利に進めようとする一方で、大衆を動員して議員をはじめとした敵対者に対して解職を示唆して圧力をかけたことでその権力をさらに強めていった結果、ドルジェールに対する反対の声は徐々に少なくなっていたのだった。
こうして実現されたケルアン協定において傀儡ながらも保護領として存在していたチュニジア君侯国は消滅したが、ケルアンの返還が実現したことはその手腕を疑問視されていたモネイムの名声を高めることになり、それは反イギリス的なモネイムを警戒していたイギリスを刺激することに繋がったのだった。
1944年になってもラーンナー王朝が消滅していないのは直接の消滅のきっかけとなった立憲革命がそもそもこの世界では起きていないからです。
ムーニエの人格主義が流行してるのは第3共和政的な自由主義も社会主義的な集団主義も多分この世界のフランスにとっては否定の対象にしかならないだろうと考えた結果です。




