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第325話 帰郷と変化

1944年12月7日 大日本帝国 名古屋県 名古屋市 港区 名古屋国際飛行場

その日、完成してからそこまで日が経っていない名古屋国際飛行場に遠く地球の裏側のパタゴニア執政府からの飛行艇が着水していた。もともとは名古屋港の開港を記念して大戦中の1937年に開催が計画されていたものの戦時中のために延期された汎太平洋平和博覧会の会場を視察するためだった。


尤も名称に平和とあってもその実情は緊張した情勢を反映したおよそ平和とは程遠いものだった。

まず、参加国家は太平洋に面した諸国とあったが、その中にアメリカ合衆国、オーストラリア連邦、極東社会主義共和国といったアメリカ勢力圏の国々は招待されていなかった。それどころか、極東を自国の領土として依然として主張していたロシア帝国を招待しており、これについては極東側が抗議の意を伝えるなどの外交的問題を引き起こしていた。


そして、それに対抗するかのようにアメリカ勢力圏の国々は博覧会に参加予定だった南米諸国に対して通過許可を出しておらず、結果として南米からアフリカ、インドを通ってアジアに至ることになった。太平洋に面した諸国の平和を祝う博覧会に太平洋を通って参加できないという珍事となった。パタゴニアの博覧会開催に伴う特使として来日した下位春吉も同じであり、久しぶりの帰郷はかなりの時間を要することになった。


この人事は下位本人の望みもあったが、パタゴニアの今後をめぐる権力闘争の結果でもあった。パタゴニアでは従来よりアントニオ-サンテリアを中心としたイタリアやその他諸外国から集まった未来派とそうした未来派の革新的な姿勢に反発した結果、特に思想的背景を持たない移民たちが基盤となった伝統派だった。伝統派にとって未来派の政策、例えば自由恋愛を全面的に許可する代わりに恋愛税を取り立てて子供たちを国家で養育するなどといった提案は普通のキリスト教徒であった移民たちには不道徳を国が公認するようなものであり断固として反対した。


しかし、そもそも組織だったものではなく単に反未来派が集まったに過ぎない伝統派は勢力としてのまとまりに欠けていたが、数としては多かったため未来派の側もそれなりの配慮をしていた。そうした中で持ち上がったのが昨年死亡したパタゴニアの国家元首である司令官を建国以来務めていたガブリオーレ-ダヌンツィオの後継問題だった。


そうして、暗闘が繰り広げられる中で注目が集まったのが下位だった。公職につかず日本文学のパタゴニアでの翻訳や逆にダヌンツィオの著作の日本語への翻訳などを行なうだけであり、戦時中もペルー共和国によって強制収容された日系人の解放運動以外は特に目立った活動をしていなかった下位だったが、ダヌンツィオの信頼の厚い人間であるということは誰もが知っており、そのためとりあえずの司令官代理として下位の名があがるようになっていた。だが、下位としてはそのような大役を望んでおらず、結局、特使への就任という形で本国を飛び出す羽目になった。


(いろいろあった結果とはいえ久しぶりの帰郷だ。少しぐらいは羽を伸ばせるだろう)


そう考えていた下位だったが、突如として激しい揺れに襲われた。パタゴニア暮らしの長かった下位が久しく感じていなかった、地震の揺れだった。


この日発生した地震は名古屋の街に大きな被害をもたらした。折しもイギリスのBBCが本国より博覧会に合わせて翌年より放送開始予定のジョン-ロジー-ベアードが開発したカラーテレビ放送用の試験機材を持ち込んでおり、鮮明なカラー映像によって被害を受けた名古屋の街を見た人々、特に大協商各国では支援運動が盛り上がることになる。


それは21年前の大震災を想起させるものだったが、その後の対応は異なっていた。

かつての大震災において場当たり的な復興となってしまったことを教訓に名古屋では思い切った復興策がまとめられた。ヨーロッパなどで進められていた都市の地下化と分散化の思想が徹底的に導入された復興案によって中心部では鉄道の地下化や無電柱化が推し進められる一方で、周辺地域では田園都市に影響を受けた皇国都市と呼ばれる衛星都市が作られ、都市人口の分散に一役買った。


こうした大規模かつ迅速な復興策は予期せぬ災害にも確りと対応することで仮想敵国であるアメリカに付け入る隙を与えないようにとの断固たる意志の表れだったが、同時に国内問題への対応でもあった。


この当時、新民本主義運動内部では帝都不祥事件での徳川義親の死亡により、一時的に茅原崋山が指導的地位に復帰していたものの、思想家としてはともかく政治力に欠ける人物であった茅原の求心力は低かった。


それでも茅原が政策を主導できたのは帝都不祥事件に関連して反対者たちが自滅した事と同盟国フランス共和国への配慮からフランスへの留学経験を買われて皇族内閣の首班となった東久邇宮稔彦王がアジア主義者であり、かつフランスへの留学時に政党政治の混乱を見ていたことから新民本主義運動に近しかった事だったが、もともと非常時であるから引き受けたに過ぎない東久邇宮は終戦後すぐに内閣総辞職をして退任した。こうして意図せず後継首班に収まった茅原だったが、実際のところ求心力は低く、新民本主義運動内部では財界出身者ながら自らを超人と考えて疑わないという強烈な個性の持ち主である久原房之介とジャーナリストから進歩党の議員となるもシベリア侵攻の余波で起こったインディギルカ号事件に全く対応できないまま内部分裂からの床次竹二郎内閣の空中分解という、政党内閣の最後に絶望して新民本主義運動に加わった演説の名手中野正剛のどちらか2人がすぐにでも後継となるだろうという見方が強かった。


だからこそ茅原としては今回の復旧を混乱のままに終わったかつての大震災の復旧計画のような中途半端な事業で終わらせることは考えてもいなかった。新民本主義運動の指導者として命を落とすことになった徳川のことを身代わりとなってくれたとも考えていたため、かつて尾張徳川家が治めていた名古屋の再建によってせめてもの弔いとしたいとも考えていたからだった。


そして、茅原はそうした復旧事業の総仕上げとして塗炭の苦しみに喘ぐ国民に対する救済策と称して、最後まで各界からの抵抗にあい棚上げが続いていた政策である国民配当の実施に踏み切ることにし、それに伴って日本銀行条例と国立銀行条例が改正され、日本銀行は国立信用局へと改組された。


このような大胆な改革は守旧的勢力の最後の牙城であった枢密院の激しい抵抗にあったが、これは逆に昭和天皇の不興を買った。昭和天皇自身は別に新民本主義運動に共感していたわけではなかったが、帝都において騒乱を起こした者たちやそれに近しい者たちを許すつもりはなく、伝えられたいくらかの"御言葉”によって枢密院は沈黙した。この事件を契機に枢密院の力は失われ、皇族裁判所及び権限裁判所としての地位は保証されたものの輔弼機関の機能に関しては設立こそされたものの権限が曖昧なままだった内閣審議会へと移されることになった。


こうしていくらかの紆余曲折を挟みながらもこの日発生した地震によって分散型の国土開発や内閣審議会の権限強化に伴う改革、そして何よりも社会信用論に基づいた国民配当によって大日本帝国は少しずつ形を変えていくことになる。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 茅原の勇気。 ぱっとしない茅原だから余計にそう感じます。 政治的な野心と言うより責務なのでしょう。 全然逆の政策ですが浜口雄幸と似たものを感じます。 [一言] 国民配当は管理通貨制度による…
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