第321話 歩いてきた道を戻って<上>
最近、私事で忙しく投稿が遅れがちになってしまい、申し訳ありません。
1944年8月2日 ポーランド連邦共和国 ミエンスク
かつてミンスクと呼ばれていた白ロシアの中心都市のひとつであるこの街は第二次世界大戦以来ポーランド領となり、今ではかつてのリトアニア大公国時代の古い名であるミエンスクに改称されていた。そんなミエンスクではこの日、近年になって暮らすようになっていたユダヤ人がデモを行なっていた。彼らはかつて、パレスチナに渡り、その後大戦中にイギリスの手によってアデン周辺地域へと移送されていたものたちだった。
「我々は"ヘブライ人"に加担するアラブ帝国との友好に強く反対する」
デモ隊の中心で声を張り上げるアブラハム-シュテルンもポーランドに生まれ、パレスチナに移住するも結局はポーランドに戻らざるを得なかったユダヤ人の一人だった。
黄金の自由の復活を掲げ、それなりにユダヤ人にも自由が許されているポーランド連邦共和国であっても反ユダヤ的感情とは無縁ではなかったが、そうした感情を抑え込みながらユダヤ人を受け入れているのには訳があった。
それはロシア帝国に対する備えだった。未だ、ポーランドがドイツに与したことを忘れていない隣国との関係が緊張しているポーランドは信用ならぬ白ロシア人を追放し、代わりにユダヤ人を受け入れることとしたのだった。反ユダヤ主義を掲げるロシア相手ならばユダヤ人は死に物狂いで戦うだろうという考えもあったが、それ以上に大きかったのはロシアの背後にいるイギリスに対してのポーランドからの友好を求めるメッセージとしての意味だった。
そもそも、パレスチナに渡ったユダヤ人たちがアデン周辺地域に移送されることとなったのは、イタリア王国がドイツの攻撃を受けた関係でイタリア側の混乱により、イタリア領東アフリカのユダヤ人自治区への受け入れが困難であったからだったが、終戦後になってもアデン周辺地域から移送されることはなかった。
これは主にイタリア側のイギリスおよびユダヤ人双方に対する不信感から、受け入れを拒否していたためだった。さらにユダヤ人に敵意を持って接していたのはイタリアだけではなかった。アデン地域の北に位置するイエメン-ムタワッキリテ王国もそうだった。
アラブの反乱と対オスマン戦争の混乱に乗じて独立を勝ち取ったイエメンを治めるシーア派の分派であるザイド派の指導者ヤヒヤーはユダヤ人に対する虐殺などこそ行わなかったが、圧力をかけて徐々に出国するように促すなど穏健な反ユダヤ主義者だった。そうしたヤヒヤーからすれば南のアデンに多くのユダヤ人が集まっていることは脅威であり、速やかにアデンからの移送を求めていた。当初はイエメンなどという小国からの要請を無視し続けていたイギリスだったが、ハーシム朝アラブ帝国がイギリスに対する敵意を公にし始めると考えを改めた。なぜならばヤヒヤーはイエメンの北側に位置するアシール地域の併合を狙っており、アラブ帝国と緊張関係にあることからうまく利用すればアデン地域の防波堤とする事ができるため、懐柔する必要があった。
こうした国際情勢の影響でユダヤ人たちはアデン地域を追われ、再びポーランドを目指すことになったのだが、その後ユダヤ人たちは2つのグループに分かれた。1つはユダヤ教の信仰を堅持しつつ、かつての故郷である東欧に戻る者たち、もう1つは東欧に戻らずあくまでも約束の地への帰還を望んだ者たちだった。後者は自らをユダヤ人ではなく"ヘブライ人"と呼び、ユダヤ教から距離を置いた。代わりに彼ら"ヘブライ人"が自らのアイデンティティとしたのがヘブライ語だった。つまり、他の多くの民族主義と同じように言語や領土をその基礎とする民族主義として位置づけたのだった。彼ら、"ヘブライ人"にとってユダヤ人とは神によって選ばれた民ではなく、ほかの周辺諸民族と同じセム人にすぎなかった。
しかし、そうした"ヘブライ人"たちの姿勢がユダヤ人たちが約束の地と呼んだ土地、パレスチナに暮らす人間の反発を少なからず和らげたのも事実だったが、当然そのような姿勢はユダヤ教の信仰を堅持する代わりに約束の地から遠く離れたミエンスクをはじめとする東欧各地に戻らざるを得なかったユダヤ人にとっては認められないものであり、"ヘブライ人"は激しく糾弾されることになり、そうした怒りは"ヘブライ人"たちを受け入れているアラブ帝国にも向けられていくことになり、シュテルンたちがこうしてデモを行なうことに繋がっていたのだった。
そうした反アラブ、イスラーム的感情は反発を招くことになり、政治面では特に強硬な反ユダヤ政策を行なっていたフランス共和国との結びつきが強まったほか"ユダヤ的金融"からの解放を目指すためにイスラーム法に反さない無利子での融資を行なうイスラーム銀行や賭博として解釈されがちな西洋的保険ではなく、クルアーンにおける自由意思による喜捨に基づいた事実上の保険商品、連帯などといったイスラーム金融と呼ばれる独特のシステムを構築することに繋がった。
これらイスラーム金融は最初は嘲笑され、次にその性質上ムスリムを対象としていたため、アラブ帝国さらにはその背後のフランスが各地のムスリムに対して影響力を行使するための道具として、特にイギリスより懐疑的にみられることになったが、一方で、イスラーム金融による融資によってフランスおよびその友好国であったイタリア王国の植民地に居住していたムスリムたちが経済的に改善されることになったのも事実であり、その評価は後世でも分かれている。
一方で多くのユダヤ人を受け入れたポーランドだが、望んだほどのイギリスとの関係の深化は出来なかった。イギリスとユダヤ人の関係が思っていたほどに深いものではなかったこともあるが一番大きな理由はポーランドの隣国であるロシア帝国だった。
イスラーム金融の起源については史実だと銀行が50年代、タカーフルの保険としての応用が70年代なんで結構前倒ししてます。
そもそも、タカーフル自体は制度として成立したのがが70年代なだけで一応アッバース朝とかでも前例があったことはあったから大丈夫なはず…




