第32話 ペトログラードの閑談
元々第31話の一部として書いていたものになりますが、長かったので分割しました。
1909年2月1日 ロシア帝国 ペトログラード ペトロパヴロフスク要塞
ロシア帝国首相兼内務大臣のピョートル-アルカージエヴィチ-ストルイピンはガボン達と退出させた後、人と会っていた。
「やはり、あんな連中に会うものではなかったな」
「お言葉ですが会いたいと言ったのは閣下ですよ」
「資料だけでは信用できなかった。それだけだよ。ズバトフ。そういえば明日、バクーに発つのだったな。司祭様に会わなくてよかったのかね」
「ええ、あまり好きではないのです」
セルゲイ-ヴァシリエヴィチ-ズバトフは、秘密警察の協力者からモスクワ警備局長にまで上り詰めた人物で、その時に彼は革命家たちが労働組合を革命組織に変貌させるための工作を行なっている事を知り、警察の管理下での労働組合の創設とそれによる労働者の教育により、労働者たちを革命から切り離そうという試みを行なっていた。この試みは彼の名を取って『ズバトフシチナ』と呼ばれたが、『ズバトフシチナ』は当時の内務大臣のヴャチェスラフ-コンスタノヴィチ-プレーヴェによって潰された。しかし、ズバトフはその後も活動を続け、ガボンとはその最中にペトログラードで出会った。
だが、労働者の政治的組織化も含め、社会革命党と連携しながら活動するガボンに対し、あくまでも労働者の政治的隔離を目的とするズバトフは衝突を繰り返し、ついには喧嘩別れしてしまった。
その後は元秘密警察という過去もあり、革命組織からの報復を恐れて家族と共に慎ましく暮らしていたが、ストルイピンが改革を進めていく中で『ズバトフシチナ』に着目し、ズバトフを内務省職員として業務にあたらせていたのだった。
そして、ズバトフはバクーにてその手腕を試されようとしていた。
石油産業で知られるこの町ではストルイピンの外資導入政策によってイギリス資本のロシアン-ゼネラル-オイル-コーポレーションによる多種多様な石油会社の一本化政策を行なっており、豊富な資金力とロシア政府からの支持を背景に、ノーベル兄弟石油会社をはじめとして他の石油会社を次々と統合しようとしていたが、反発も大きく、特に労働条件がこれまでよりも悪化する現場ではストライキなどが起きており、そこを革命勢力に付け込まれようとしていた。
そこでストルイピンはズバトフをバクーに派遣して、労働争議の鎮圧と革命勢力の弱体化を狙っていたのだった。
「すべてが終わったら、クリミアかどこかでゆっくりすることにしますよ。閣下」
「ほう、クリミアか、あそこは保養地としてはいいな」
「今や、ドイツ人に近すぎるのが難点ですがね」
「そういえば、ドイツ人の間ではトルコ旅行が流行っていると聞いたな」
「ドイツ人はトルコにやけに投資していましたな。全くコンスタンティノープルを占領した連中に金を恵んでやるとは、未開なアジア人はどちらかわかりませんな」
「全くだ」
そう言って2人は笑った。『未開なアジア人』は第一次世界大戦中にドイツ帝国がしばしばプロパガンダの1節として多用した言葉だった。ヨーロッパ世界では時としてロシアはアジアと見なされる事があるからだった。
「さて、無駄話はここまでにしよう」
「はい、閣下」
翌朝、ズバトフはバクーに向けて出発した。ストルイピンとズバトフたちが進めた一本化政策は石油産業を図らずも大きく塗り替える事になる。




