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第319話 独立を前に

4周年記念作品はもうしばらくお待ちください。

1944年6月9日 イギリス領インド帝国 ラクナウ ザ-レジデンシー

ラクナウはその日活気づいていた。なぜならば3日後には西はバローチスタンから東はナガランド、北はアフガニスタンから南はニザームまでのイギリス領インド帝国の大部分を継承することになる新国家南アジア連邦としての独立宣言を世界に発することなっており、ラクナウをはじめとする各都市で多くの人間が祝っていた。ラクナウはかつてのインド大反乱の折、激しい攻防戦の舞台となった街だったが、数年ほど前にラホールを拠点にしていたヒンドゥーとムスリムの統一とインドの自治を訴える活動と貧困層への慈善事業を続けていた団体であるカクサー運動がラホールから拠点を移してきていた。


ラホールからの移動に対して指導者の一人であるパンジャーブ出身のイナヤトゥラ-カーン-マシュリキは反対していたがスポンサー的存在でもう一人の指導者だったアーガ-ハーン3世の説得によって渋々同意していた。アーガ-ハーン3世がカクサー運動の拠点を東に動かしたのは、すでにコンバウン朝による王政復古が決定していたビルマとドラヴィダ人による新国家ドラヴィダ-ナードゥの分離独立が確定していたことから、それ以上の分裂を避けるために高度な自治権を認めざるを得なかったベンガル地域に対する圧力をかけるためだった。


新国家の名である南アジア連邦はかつてアーガ-ハーン3世がイギリス領インド帝国全体を含めた国家構想として提案していた名であり、いずれはビルマやドラヴィダ-ナードゥを統合するという願いを込めてあえてインドではなくこの名を採用したのであり、そうした目標をもつアーガ-ハーン3世からすればベンガル地域の分離を許すことはあり得なかった。


ラクナウの中心部に位置するザ-レジデンシーは東インド会社の駐留軍司令官(レジデンシー)の邸宅が攻防戦で廃墟となり、近年までそのまま史跡として残されていた場所だったが、今は取り壊されてインド風の要素をもちながらも現代的な建築に建てかえられていた。この場所が長くザ-レジデンシーと呼ばれていたために新しい建物自体もザ-レジデンシーと呼ばれていた。


ザ-レジデンシーはカクサー運動の新しい本部であり、その中の一室ではアーガ-ハーン3世が1人の女性を説得しようとしていた。


「確かにオーラリアに渡り建築とは無縁の人生を過ごすのもいいでしょう。しかし、新しく独立するわが国にはあなたのような才気ある女性が不可欠なのです。どうでしょうか、いましばらくこの地に残ってはくれませんかマリオン女史」

「しばらく考えさせてくれませんか、正直、教育など私にはとても…」

「勿論です。私としてはあなたの意思を尊重しますよ。亡くなられたご主人もそれを望まれているでしょうしね」


アーガ-ハーン3世の言葉に対し、元アメリカ人の女性建築家であるマリオン-マホニー-グリフィンは困った表情を見せるのみだった。


今のザ-レジデンシーの基礎設計を担当したのはマリオンの夫であるアメリカ人建築家ウォルター-バーリー-グリフィンだった。敵国人ともいえるウォルターがこの建物を設計することになったのには訳があった。シカゴ生まれのウォルターは高名な建築家フランク-ロイド-ライトのもとで働いたのちに独立し、キャンベラの設計コンペで1位となるなど目覚ましい活躍をしていたが、かつての師であるライトはその活躍に嫉妬し、ライトはウォルターに対して批判的となっていった。


当時はホワイト-モーター-カンパニーの郊外都市計画で再びライトに注目が集まっていた時期であったこともあり、ライトによるウォルター批判はそのままウォルターのアメリカでの仕事を奪うことになった。さらに、キャンベラの都市計画に関しても費用が掛かりすぎるとして歴代オーストラリア政府によって縮小または変更されていったが、ウォルターからすれば改竄以外の何物でもなく、一連の出来事に強いショックを受けたるウォルターは、ドイツの著名な哲学者にして教育者であるルドルフ-シュタイナーの思想である人智学に傾倒するようになり、遂にはマリオンを連れてインドへと移住した。その後はルーデンドルフ政権によって人智学が弾圧されたことから、祖国であるアメリカ合衆国が社会主義ドイツと同盟関係にあることに抗議してアメリカ国籍を放棄し、そのまま1937年に亡くなるまでラクナウで設計を続けた。


マリオンは夫の死後もラクナウに残って夫の作品を形にし続けており、ザ-レジデンシーも死後にマリオンが形にした作品のうちの一つだった。しかし、マリオンはこうした生活に徐々に限界を感じるようになっていき、インドを離れ、建築から身を引きたいと思うようになっていた。


それに待ったをかけたのがアーガ-ハーン3世だった。アーガ-ハーン3世は常に女子教育の必要性を訴えており、マリオンの優秀さを知っていたアーガ-ハーン3世はカクサー運動による貧困層への教育の一環として近く創設を考えていた女子教育機関において講師として働くように求めた。結果的に、マリオンはアーガ-ハーン3世の申し出を承諾し、のちにラクナウに設立された女子学校の校舎の設計にも携わることになり、マリオン、そしてウォルターの建築は南アジア連邦の建築に大きな影響を与えることになる。


こうした女子教育の必要性について当時のインド社会での理解は薄かったが、アーガ-ハーン3世が自らの理念を浸透させるさせるために利用したのが1929年に暗殺されたインド国民会議の政治家モーハンダース-カラムチャンド-ガーンディーだった。フェビアン協会の影響を受けた他の国民会議の政治家ほど社会主義的でもなく、なによりも人間的に清廉潔白であったことから現在でも根強い人気があり、ガーンディーの死後に結成されたカクサー運動でも自らの唱えるヒンドゥーとムスリムの統一という理念を大衆に浸透させるために、ガーンディーのことを称揚していた。


一方で、こうしたガーンディーの称揚による政治的利用についてはインド国民会議から激しい反対を受けたが、カクサー運動の姿勢がガーンディーの目指したものより権威主義的ではあっても貧困の削減やヒンドゥーとムスリムの融和といった成果を少しずつだがあげていたのは事実であり、感情的対立以上のものには広まらなかった。アーガ-ハーン3世はガーンディーもまた女子教育の必要性を訴えていたことを引き合いに出してカクサー運動内外からの反対を抑え込んでいった。ガーンディーを称揚することにより実を結んだアーガ-ハーン3世の理想は、のちの南アジア連邦発展の礎となった。


しかし、こうしたガーンディーの称揚と理想化は良いことばかりではなかった。


たとえば、ガーンディーがヒンドゥーとムスリムの融和を訴える一方で、独自の宗教ではなく単なるヒンドゥーの改革運動として見做していた仏教を信奉するビルマあるいはセイロンとの緊張関係、国内でも同様にヒンドゥーの改革運動に過ぎないと見做されていたシク教やあるいはヒンドゥーに配慮して抜本的改革を避けたため形式上の改革にとどまった不可触民問題などヒンドゥーとムスリムの融和が進む一方でそこから除かれたものたちの存在、あるいは独立を優先するために各藩王国の自治を保障するというガーンディーの路線を引き継いで独立に際して各藩王国ごとに帰属が決められたことから、ドラヴィダ-ナードゥとの間でニザーム藩王国でのテランガーナ紛争を引き起こす事になるなど、ガーンディーの残した負の側面もまた南アジア連邦へと継承されることになる。

グリフィン夫妻がライトの一方的な嫉妬により不仲で人智学に傾倒していたのは史実ですが、経歴を少し変えています(史実ではオーストラリアに移住後インドに行き、その後ウォルターの死後マリオンは生まれ故郷のシカゴに戻って建築とは無縁の生活を送っていたようです)。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 多様な国民を包括する新国家南アジア連邦の挑戦。 またガンディーの理想と政治的遺産が残ってインドの発展の方向性に寄与している点。 [気になる点] 一応印パ戦争は回避できるのでしょうか。 やは…
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