第315話 ベルヴェデーレハウス会議
1944年3月7日 英領インド帝国 カルカッタ ベルヴェデーレハウス
ベルヴェデーレハウスはもともとイギリス東インド会社のベンガル総督ウォーレン-ヘイスティングスのために建てられた建物であり、以降ベンガル総督の公邸として使われていたが、ニューデリーへの遷都後に旧インド総督公邸がベンガル総督の公邸として使われるようになるとその役割を終えた。
そんなベルヴェデーレハウスにはこの日、イギリス人、出身も階層も違うインド人、自らをインド人とは異なる人種とみなすドラヴィダ人、そしてそもそもインド圏に属していたわけではなかったが、戦いの末に英領インド帝国に併呑された保護領アフガニスタンとビルマ植民地の出身者たちが集まっていた。インド側が求める英領インド帝国の再編後の独立案に対しての意見を聞くために開かれたこの会議にはセイロン島からの代表者がいなかったが、これは地理的に重要な地であるセイロン島を除外すべきとのイギリス本国の強い意向があったからだった。
「なるほど、ではどうしても我々とともに歩む気は無いと?」
「……そもそも、我々がこうしてインド帝国に属しているのはイギリスの…いや、イギリスとの戦争に敗れた結果であって、もともと我々はインドではないのですから当然でしょう」
「ですが近年のロシア帝国の政策はアフガニスタンにとっても問題が多いはず、テュルク系民族が皆無というわけではないでしょうからな」
「南下の脅威を訴えるのであれば、まずはインド人投資家をどうにかするべきでしょう。その投資こそが今やロシアを支えているのですから」
「……我々は…あくまでも大英帝国全体の利益を考えて行動しているのです」
「…なるほど、そうですか」
「…しかしですな、インドからの投資が必要なのはアフガニスタンとて同じことではないですか?現在は保護領ですから投資に制限はありますが一州として加わればさらなる経済的発展が望めますし、北西辺境とアフガニスタンに引き裂かれた貴方方が一つになることも可能なはずです」
インド側代表として会議に参加しているアーガ-ハーン3世の言葉にアフガニスタン保護領国王アマーヌッラーハーンは答えなかった。イギリスによって2つの地域に分割された同胞の統一は喜ばしいことだったがインドという圧倒的経済優位を持った地域の傘下に入ることに強い警戒感を持っていたからだった。それはアフガニスタン以外にしても同じであり、会議は英領インド帝国の版図をそのまま維持しながらの独立を望むインド側とそれ以外という構図だった。しかし、インド内部にも火種は存在していた。
「我々はインドからは分離する。これはドラヴィダ人の総意だ」
「…どうしても、譲る気はないのですか」
「それは大戦中より何度となく我々と交渉を行なっているあなたが一番わかっていることなのではないですかな?」
「ですが、しかし…」
「貴方方が分離を認めないというのならば、もはや、こうして言葉を交わすことにすら意味はなくなります。もちろん我々は流血の事態を避けたいとは思っていますが、それは分離、いや、独立を選ばないということではないということをご理解いただきたい」
アーガ-ハーン3世に対してドラヴィダ人の権利擁護を求める自尊運動の指導者であるエロード-ヴェンカタッパ-ラーマサーミはきっぱりとそういった。ラーマサーミは自尊運動が正義党と改称し、地方政党として議会進出を果たした後もその指導者であり続け、アーガ-ハーン3世は独立後もインドにドラヴィダ地域が留まることを望み、ラーマサーミに何度も接触していたが、あくまでもインドからの独立を望むラーマサーミの答えは否だった。
「我々、ビルマにしても同じことですな。そもそも、我々はインドではない。このような会議に呼ばれることすら不愉快だ」
「しかし、インドの独立はビルマにとっても大きな問題であるはず。経済的深いつながりがあることは明白であって…」
「…たしかに、深いつながりはあるでしょう。しかしそれは甚だ不本意なものだ。貴方と同じインド人の高利貸しがビルマの民草をいかに踏みにじっているかなど、きっと、ご存じではないのでしょうな。我々が望むのはミャット-パヤ殿下のご帰還、それしかないのです」
ビルマの仏僧であり、農村部を中心に慈善事業と反インド人高利貸し運動を行なっているサヤー-サンが敵意を込めながらビルマの立場を述べた。サヤー-サンはビルマ最後の王朝であるコンバウン王国の最後の国王ティー-ボーの娘である現コンバウン王家家長ミャット-パヤをビルマ女王として即位させ、再びコンバウン朝の復古を成し遂げようと考えていた。
(くそ、何故だ。何故、我々がこうして責められねばならん。何故、総督は何も言わない。大戦中の我々の貢献を無かったことにするつもりか)
アーガ-ハーン3世は会議の主催者であるが沈黙を続けるオーラリア総督ケント公ジョージと並ぶ王族出身の総督であるインド総督ヨーク公アルバートに対して不信感を抱いた。ヨーク公が口を開いたのはそれからしばらくしてからだった。
「総督府としてはこの場において重ねられた議論をもとに慎重に判断したいと考えている」
「失礼ですが、そのような言葉ではここにいる全ての者が納得しないでしょう」
「…そうだな、それはよくわかる」
「では、いったいどうするおつもりか」
「……だからこそ、慎重に判断したい」
ヨーク公の発した煮え切らぬ言葉によってそれまでの不満が爆発した会議場は怒号であふれ、それを聞いていた警備要員が突入したがヨーク公は参加者を拘束せずに静かに会議場を出て行った。結局、アーガ-ハーン3世らの目指す英領インド帝国そのままの独立国家への移行を目指す、1つのインド構想は事実上失敗に終わり、もっとも独立を強く主張していたビルマ及びドラヴィダ地域に独立に向かって動き出し、インド側はアフガニスタンやベンガルを引き留めるために強い自治権を認めることになる。
しかし、独立後のビルマに関してはタイ系民族が暮らすシャン地域の併合をシャム王国が求め、また、ドラヴィダ地域の中でも近代化が進んでいたトラヴァンコール、マイソールの両藩王国が態度を明確にしないこと、そしてヒンドゥーとムスリムの融和の中で危機感を強めていたシク教徒の存在など紛争の火種を残し続けることになるのだった。
サヤー-サンが反乱を起こさずコンバウン朝の復古を求めているのは、世界恐慌がないためビルマ経済への影響が少なかったためとインドからの経済的進出(ビルマ人からすれば侵略)がより激しいため、反イギリスよりも反インド人高利貸し運動に力を入れているためです。




