表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
312/330

第312話 地域のために

1944年1月10日 イタリア王国 ピエモンテ イヴレーア ジャコーザ劇場

イヴレーアの市民劇場として建てられたジャコーザ劇場にはこの日多くの群衆が詰めかけていた。

群衆の目当ては歌劇ではなく、この日開催される予定の演説会だった。あまりに多くの群衆が詰めかけたために社会主義ドイツによる破壊からの復興途上にあるイヴレーアの警察では対応できず、警備にはイタリア陸軍の兵士も動員されていた。やがて、一人の男が演説を始めた。その様子を兵士の中には苦々しげに見ている者もあった。なぜなら演説をしているのは今や社会主義者と同一視されることも多くなったユダヤ人なのだから。だが、そんなことは演説を聞いている群衆にも、演説をしている男、イヴレーアが誇る大企業であるオリベッティ社社長、アドリアーノ-オリベッティにも関係がなかった。


「ここ、ピエモンテはフランスと我がイタリアの間で絶えず争いが繰り返されてきた地だ。だが、どうか思い出してほしい。果たして今はそのようなことをしている場合なのかと。イタリアの永遠の都にして全ヨーロッパの中心であるローマはかつての攻撃によって今も汚染されたままであり、ここ北イタリアは荒廃し、南イタリアの貧しさは未だ解消されていない。そして、この向こうのフランスにしてもそれはまた同じだ。パリはその周辺の工業地帯共々、わずかな建物を残して焼き払われ、戦場となった北東部はいまだ荒れ地のままだ。では、我々はいったい今、何をするべきなのだろうか、答えはただ一つだ。このイタリアという国家の貧困を、イタリアとフランスというヨーロッパの兄弟同士の対立を終わらせなければならない」


オリベッティが演説をいったん締めくくると多くのものが拍手をした。

オリベッティはタイプライターの製造で知られるオリベッティ社の創設者カミッロ-オリベッティの長男として1901年に生まれた。オリベッティは技術者一本だった父とは違い、人文科学を志して父と対立し、そのままバルカン戦争に兵士として従軍したのち、オリベッティ社に入社した。カミッロが息子にまず与えたのは工場での仕事であり、オリベッティはそこで労働者たちと交流した。労働者たちの現状を知ったオリベッティはそこでどうすれば労働者たちを豊かにできるのかと考え始めた。


悩んだ末にオリベッティがたどり着いたのは、企業による労働者と地域社会への利益の還元だった。

オリベッティは自社工場の近くに労働者が必要とするすべての施設をそろえることで通勤の無駄を削減し、また徹底した効率化と高い水準の給与と適度な休暇を与えることで生産性を確保した。さらに、オリベッティが特殊だったのは、自社の株主、地方政府、大学といった個人や組織と連携して財団を組織することで地域社会に深く根差した企業としてオリベッティ社を変えていこうと考えていたことだった。第二次世界大戦によってオリベッティの試みは中断されるもそうした理想は理解を得ており、再建にはイヴレーアの多くの者たちが進んで協力していた。


オリベッティはこうした地域に根差した企業による分権的な経済の実現によってイタリア全土を復興させ、戦前よりも豊かにしようと考えており、オリベッティはその活動をゆくゆくはイタリアのみならずヨーロッパ全土にまで広げようとも考えていた。


こうしたオリベッティの活動に対しては反ユダヤ的思想を持つ者たちからイタリアを引き裂こうとしていると批判されることになったが、それに対してオリベッティは技術的な解決策を用意していた。かつてパタゴニア執政府の技術者レオナルド-トーレス-ゲベードとベルギー王国の平和活動家ポール-マリー-ギスラン-オトレが構想するも戦火によって実現できなかった計画である電気機械式計算機同士をつないでのネットワーク化を全世界で行なうことで世界中の研究機関で共同研究を行なえる体制を作り、知の共有を世界平和への一歩目とする事を目指す世界計算機構想のイタリア版がそれだった。

地域に根差した企業による分権的な経済を作るうえでの大きな柱である大学同士を結び付けることによって、大学を従来の閉じられた施設からイタリアという国家の多様性を保持しつつ統一性を演出し、実感させることのできる場所への転換を図ることができるといい、その計算機を結び付ける通信網を国家が管理することでイタリア国家の統一性を確保できるとも主張した。


こうした主張の背景にはオリベッティ社がイタリア最大の計算機製造企業であり、自社の利益を考えての提言でもあったが、そこでオリベッティ自身も思いもしない追い風が吹くことになった。追い風となったのが昨年12月のクーデンホーフ=カレルギーによる多地域の統合を通して1つのヨーロッパを作り上げるという方針転換であり、オリベッティの産学官連携とそれによる地域主体の経済の構築というイタリア復興のための計画は多地域の統合の模範としてヨーロッパ各地で模倣されることになり、やがてその成果を受けたヨーロッパ以外の世界へも広がりを見せることになる。


1944年1月19日 イギリス エディンバラ

「さて、どうするべきか、だな」


アーチボルト-ノエル-スケルトンは手紙を見ながら迷っていた。

スケルトンはスコットランドの公衆衛生や地方自治に尽力した行政官であり、作家でもあったジョン-スケルトンの息子であり、父と同じく保守党に近いスコットランドの地域政党である統一党所属の議員であった。スケルトンは従来の民主主義を称賛しながらも、その新たな形として富の再分配を重視する財産所有の民主主義の提唱者であり、そのほかにも土地改革の提言のほか、国有化や協同組合的な改革主義を打ち出し、漸進的社会主義を目指していた労働党に対抗して、既存の資本主義を維持しつつも産業民主主義のもとで労使関係改善のために協議会の設置や労働者による経営への参画、株式保有などの様々な改革案を積極的に打ち出していた。 


そんなスケルトンの改革者としての側面は同盟者である保守党議員たちからは煙たがられたが、そんなスケルトンにとっての唯一にして最大の庇護者が保守党の重鎮であったスタンリー-ボールドウィンだった。労働者との対話を重視する温情主義的な経営者であった父アルフレッド-ボールドウィンに強く影響されていていたボールドウィンはスケルトンの改革主義的な姿勢を自由党や労働党の掲げていた政策とも違う第3の案であり、戦後の総選挙を見据えたうえで保守党の勝利に大きく役立つと高く評価していた。


だが、当時の保守党は戦時内閣の中心を務めていたがために、戦時立法による強権的姿勢とアイルランドやインドにおける将来的な自治の約束による大英帝国の後退とも見られかねない妥協的政策により支持率が低迷し、改革案を打ち出して選挙に臨むか、それとも守旧的な姿勢を貫いて従来からの支持層の保守党離れを食い止めるかの2択を迫られていた。ボールドウィンはあくまでも改革に固執しスケルトンも統一党内で同様の主張を行なったが、保守党内では守旧派が優勢であり、統一党でもそれに合わせるべきとの主張が優勢だった。だが、その結果として行われた総選挙では保守党および統一党の大敗に終わり、スケルトンは失望して統一党を去って、現在は自らが議員時代に考案した財産所有の民主主義に関する執筆活動に専念していたのだった。


だが、そんなスケルトンに目を付けたある党から誘いの手紙が来ていた。

その党とはスコットランド国民党だった。スコットランド独立を求めるスコットランド国民党は大戦中には徴兵反対運動を行い、当局から弾圧された。だが、スコットランドを取り巻く状況は日々"悪化"しているという危機感が、スコットランド国民党の再結成を促した。鉱山労働者の多いウェールズ地域の切り離しを目的として保守党政権が最後の施策としてウェールズへの重点投資を行うことを発表し、その後勝利した労働党も支持層の継続的な取り込みを目的として継続する意向を示していたことから、このままではスコットランドは衰退するという見方が強まっていたのだった。

こうしてスコットランド国民党は再結成されたものの、その内部は独立ではなく自治を求める穏健派とあくまで独立に固執する過激派に分かれていた。穏健派が過激派を社会主義者と中傷し、反労働党路線を掲げて早々と統一党と連携を表明したのに対して、あくまで独立を求め続ける人間で固まっていただけの過激派、特にその主流である中流階級以上の議員たちは労働党との連携に対して及び腰だった。


その打開策として、従来の資本主義とも社会主義とも違う再分配を重視する民主主義というスケルトンの財産所有の民主主義は注目されたのだった。スケルトンとしては古巣である統一党と敵対することに対して引け目があり、最終的にはスケルトンは議員としては出馬しないが、政権公約の策定にはかかわることとした。


やがて、財産所有の民主主義はスコットランド国民党の政策の柱となり、スコットランド人の目指すべき民主主義として称揚されることになるとともに、衰退していくばかりと思われた世界各地の自由主義者にも受け入れられることになる。

オリベッティは史実だと政党作ったり、イヴレーアの市長やったりしてるんですが、イタリアが大規模な戦災を受けている状況だとまずは自社の復興を急ぐだろうと考えて社長のままです。


スケルトンは史実だと35年にガンで亡くなってるので本来は出てきてはいけない人物であるというのはわかってはいるのですが、本来スケルトンの遺志を引き継ぐという形で登場させようと考えていた盟友ダグラス=ヒュームが本格的に活躍し始めたのが戦後からだし95年まで存命だったりで、規約にある第二次世界大戦までの人物とは言えないのではないかと思いスケルトンにしました。


また、財産所有民主主義については、スケルトン自体の思想についての資料がなかなかなかったのもあり、スケルトンの思想的な意味での後継者(といっても思想的には変質していると思いますが)のミードの著作をかなりの部分参考にしたため、おそらく史実でスケルトンが提唱していたものと異なっている可能性がありますが、そこは創作上の都合として温かい目で見ていただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ