第308話 第2次エル-ファーシルの戦い
1943年7月1日 イギリス-ハーシム朝アラブ帝国共同統治領スーダン 保護領ダルフール-スルタン国 エル-ファーシル
ダルフール-スルタン国の首都エル-ファーシルでは戦いの準備が進められていた。かつて救世主を名乗り、エジプトやイギリスと戦ったムハンマド-アフマド-アル-マフディーの息子であるアブド-アル-ラフマン-アル-マフディー率いる第二次マフディー運動の軍が迫っていたからだった。
「我らは戦いの経験に乏しい。情けない話ではあるが…」
「わかっています。我らは戦うためにここに来たのです」
申し訳なさそうに言ったスルタン、アリ-ディーナーリに対して第二次世界大戦中のイタリア王国軍での従軍経験が評価されリビアのイスラーム神秘教団サヌーシー教団から派遣されたユスフ-ボラヒル-アル-ミスマリは自信たっぷりにそういった。サヌーシー教団とマフディーの間には因縁があった。ムハンマド-アフマド-アル-マフディーがムスリムの実践するべき五行のうちのメッカ巡礼を勝手に聖戦と変えて、そのうえ新たに6個目の義務として自身への忠誠を求めたことに対する反発やマフディー軍がサヌーシー教団の主要な財源であったサハラ交易を脅かしていたことなどもあり出兵しダルフール軍とともに1889年2月22日にエル-ファーシルでマフディー軍と激突するも敗北したという過去があった。こうした経緯があったため、今回もダルフール側は早期にサヌーシー教団へ接触を図っていたのだった。
なぜ、再びマフディーの信奉者たちが再び決起したのかを知るには、マフディー戦争終結後のスーダンの歴史に触れる必要がある。戦後、スーダンは名目上はイギリスとエジプトのムハンマド-アリー朝の共同統治領として、実態としてはただのイギリス植民地として統治されており、ハーシム朝アラブ帝国となることにより、エジプトが一応の独立を果たした後も変わらなかった。
そもそも、エジプトにとってスーダンはあまり旨味のある土地ではなかったのが大きな理由であったが、そうしてエジプトが無関心を貫いている間にもスーダンの状況は大きく変わっていた。まずは最終的に大清帝国上海にまで延長されたケープ-カイロ鉄道により、南アフリカから清国までをつなぐ大動脈の一部となったこと、次にナイル川上流のダム建設により主要な農業用水であるだけでなく、水運として活用されていたナイル川の上流にそれぞれダムを築き、ナイル川の水をイギリスが自由にコントロールできるようになったこと、そして最後にスーダン南部地域でのキリスト教宣教の拡大だった。
もっとも、どれも当初は大した影響はないと考えられていた。ケープ-カイロ鉄道に関してはその建設段階から多額の赤字が指摘され、経済効果が疑問視されていたし、ルートの途中にあるイランでの革命や対オスマン帝国戦争などもあって全通は1920年代までずれ込むほどだったため、利用者はそう多くなく、すぐにでも廃線になるのではと予想されていた。また、ナイル川上流のダムにしても、それで水利権を支配することができたといっても、多少エジプトが反イギリス的な動きをしたといってもできることはたかが知れており、それに対してナイル川そのものを干上がらせるなどあまりに非効率であり、結局のところ治水に使うことしかできなかったし、キリスト教の宣教にしても多くのものは楽観視していた。
だが、世界各地が大きく変化を強いられることとなった第二次世界大戦の影響はスーダンにも及んでいた。
まず、それまでは半ば意地で運行していたケープ-カイロ鉄道はインド洋におけるアメリカ海軍による通商破壊を避けるのに大いに活躍した。アフリカ植民地の資源をイギリス領インド帝国へと運び、そこで作られた物資を清国、あるいは本国からの補給が途絶えがちなフランス領インドシナなどへと運んだ。
そしてインドの重工業化が始まるとそれを補完するための軽工業地域としてアフリカの植民地に目がいくようになった。それまで鉱業と農業が主流だったローデシア植民地などがその代表だったが、タナ湖周辺のイタリア領東アフリカ植民地ユダヤ自治区ではイタリア王国とイギリスの共同事業であるアビシニアダムの電力に加えて元々の住民の教育レベルが高かったこともあり、急速に工業化が進みヨーロッパと比べても遜色ない生活水準になっていた。また、ダムからは遠かったがフランス領に近いディレ-ダワ藩王国では植民地化以前の古い工場を近代化しようとする動きがみられるようになっており、アフリカ各地で大きな変化をもたらすようになっていた。
しかし、スーダンでは南部地域ではイギリスの手によって少しずつ工場やインフラが建設されはじめた一方で北部ではいつになっても近代化の動きが始まらなかった。南部中心の政策を推し進める背景にあったのが、南部で広く活動していたキリスト教宣教団の存在だった。彼らはこうした投資の見返りとしてのイギリスへの現地住民の戦争協力を約束したのだった。こうして、南部でインフラやあるいは働き口が増えるのと比例するかのようにキリスト教徒が増え始めるにあたって北部では危機感が強まったが、すでに遅かった。
戦後になっても、そうした状況が改善することはなく、北部ではイギリスに対する不満が高まっていた。一連のエジプトにおける混乱が発生したのはそんな中だった。このエジプトの混乱、特にイスラーム以前の時代を理想視するファラオニズム信奉者たちが政権を獲得したことは大きな衝撃だった。
ムハンマド以前を混沌の時代であったとするムスリムの歴史観からすればファラオニズムなどは認められず、また背後にイギリスがいたということもあって、当然、最低でもスーダンの独立、できればエジプトの討伐を望む声も少なくなく、フランスからイタリア領東アフリカ経由で武器弾薬が供与されると、マフディー教団を中心に蜂起が始まったのだった。
イタリアが供与に賛成したといっても、大戦中の遺恨により反イギリス的な考えを持つようになった軍および政界の派閥が関与しただけであり、イタリア政府そのものの方針とは関係がなかった。イタリア政府としては多少の問題があったとしてもイギリスとの協調政策を進めようとしていたが、一方でスーダンでの混乱を自国の利益のために利用しようとも考えており、黙認したのだった。
イタリア政府はサヌーシー教団をマフディー支持者たちとの戦いに放り込むことでその勢力を減らそうと考えたのだった。サヌーシー教団の側としては思うところがないわけではなかったが、それ以上にマフディーに対しての敵対心のほうが強かった。そして、イタリアは成功すれば"イタリアによる"イギリスの利権保護をアピールして関係維持の材料に使おうとし、失敗しても"現地人の暴走"としてそれを理由にサヌーシー教団の掃討戦を行おうと考えていたため、積極的に後押ししていたのだった。
こうして、サヌーシー教団及びダルフール軍とマフディー軍によって行われた第二次エル-ファーシルの戦いは戦闘経験と装備に勝るサヌーシー教団の活躍によりダルフール側の圧勝に終わったが、事実上他国からの介入を受けた形のイギリス政府は面白くなく、また、翌年の1944年にロンドンでのオリンピックの開催を控えていたこともあり、エジプトから始まった一連の混乱を終わらせるための国際会議の開催を呼びかけることに繋がったのだった。




