第299話 科学から空想への社会主義の発展
1942年5月30日 オランダ王国 フローニンゲン州 フローニンゲン
オランダ北部に位置する中世以来の商業都市であるフローニンゲンではとある新政党の結党式が行われていた。
「諸君、我々は今こそ科学などという言葉に囚われることなく理想郷を目指すべきなのだ。我々に必要なのはマルクスではなくベラミーだ」
壇上の男、ヨハネス-ヘンドリック-フェルトマイヤーはそう言った。オランダベラミー主義者党が産声を上げた瞬間だった。ベラミーとはアメリカ合衆国の作家でユートピア小説『顧みれば』の著者として知られるエドワード-ベラミーのことだった。『顧みれば』の中で示された女性の家事からの解放による男女平等、全産業の国有化、貨幣を廃止して代わりに各人が自由に使用できる信用券を導入するなどのベラミーのアイデアは大衆を魅了し、アメリカ各地でそれを実現しようとするコミュニティが作られるほどだったが、やがて時代とともに忘れ去られていった。
だが、オランダではこのベラミーの空想的ともいえるビジョンを愛するものが少なからずおり、1933年には国際ベラミー協会が作られたほどであり、フローニンゲン大学の学生だったフェルトマイヤーもすぐにその理想に魅了され精力的に活動していたのだが、国際ベラミー協会の活動は知識階級の道楽ともいうべきものであり、一般大衆にはなかなか広がらなかった。しかし、第二次世界大戦がすべてを変えた。
大戦中、オランダは親ドイツ的と思われる態度をとりつづけてきたが、中でもルイ-ド-ヴィッセルを中心とした社会主義勢力は強力な親ドイツ路線を推し進めた。だが、その反動はすぐに訪れた。勝利した大協商は終始オランダに対して冷淡な態度をとり続けた。アメリカは大戦中からの友好的態度からオランダ唯一の友好国ともいえたが、アメリカに依存しすぎるのも危険だった。アメリカの狙いがオランダ領東インド植民地にあることは子供でも分かることだったし、なによりもオランダという国自体がヨーロッパの国であることを考えると、アメリカではロバート-トッド-リンカーン政権時代の副大統領でアイダホのライオンと呼ばれたウィリアム-エドガー-ボーラの言葉からまやかし戦争、大協商陣営では奇妙な戦争あるいはフランス語を好まないイギリス人には保守系政治評論家であるウィンストン-レナード-スペンサー=チャーチルのまどろみ戦争という言葉で知られている奇妙な対立状態が生まれ始めていたことから過度な親アメリカ政策をとることはできなかった。
こうして、大協商に対する融和策としてオランダでは緩やかな社会主義勢力の排斥に乗り出したのだがこれがまずかった。オランダでは19世紀から柱状化社会と呼ばれる独特な社会が築かれていた。これはプロテスタント、カトリック、自由主義といった個々人の宗教的、あるいは思想的な基盤を元とした集団で"柱"を形成し、政党はもちろん、使用者団体、労働団体、果ては教育、医療から催し物に至るまでがその"柱"の中でまとまった社会だった。そしてその"柱"を構成していた思想的な基盤の一つが社会主義であり、だからこそ、比較的穏健な形での社会主義勢力の排斥を目指すこととされたのだった。幸いなことに中心的な指導者の多くにドイツとの関わりが見られたためそれらを理由に政治の表舞台から姿を次々と消していったのだが、問題はそれらの"柱"を構成していた諸機関だった。
"柱"の中心としての政治家、活動家たちはいなくなっても団体としては残っていたし、何よりもそれらの組織には自分たちはオランダ社会の一翼を担ってきたという誇りがあった。そこで、白羽の矢が立ったのが方向性の違いからドイツと関わりを持つどころか空想的社会主義と蔑まれていた国際ベラミー協会だった。少なくとも一般人からすれば目指す理想像は似たようなものであり支持する声は大きかった。
国際ベラミー協会の側では現実政治への参入に関して反対する声もあったが、フェルトマイヤーのような若い会員を中心に現実政治への参入を求める声が高まったのを見て参入を決意した。この日の熱狂はベラミー主義という"理想主義"が、マルクス主義という"科学"に勝ったことをあらわしていたのだった。しかし、他の"柱"であるプロテスタント、カトリック、自由主義からすれば面白くなく、それらはやがて既存の"柱"の枠組みを超えたオランダ連合という非社会主義統一政党を作り上げることになる。ここまで、既存政党がオランダベラミー主義者党に対して対抗心を示したのは、いくら名を変えても中身は社会主義者であるという危機感があったからだった。実際、社会主義者たちが存続を図ろうとした例は多くイタリア王国やスペイン王国、ポルトガル王国などでは協同組合主義者として現実政治から距離を置き地方復興や経済活動に尽力することで一定程度の勢力を確保し、フランス共和国ではマルクスによって空想的社会主義者とされたサン-シモン伯クロード-アンリ-ド-ルブロワやエティエンヌ-カベが"再評価"され、それらの思想に基づいた改革を提言して社会変革を成し遂げようとするなど大陸ヨーロッパ各地でそのような活動はあった。
甚大な被害を受けた大陸ヨーロッパですらそうなのだから、ほかの地域ではある程度の監視の下ではあるが社会主義者たちは公に活動できていたし、とくにイギリスでは労働党が打撃を受けた保守党に代わって自由党との二大政党を形成するようになるのも時間の問題と言われていた。マルクスは多くのものから否定される存在となったが、皮肉にもマルクスが拒否した空想的社会主義、あるいは階級協調的路線に沿った形で社会主義は生き残っていたのだった。
こうして多くのものから既存の社会主義政党の代替物とみなされていたオランダベラミー主義者党だったが、社会主義政党のみならずほかの運動にはない一つの特徴があった。それは植民地の自治領化を綱領に加えていたことであり、社会主義ととも帝国主義もまた一つの転換点に入ったことを示すものだった。
第二次世界大戦は静かに、だが着実に各国に変革を強いていたのだった。
オランダベラミー主義者党は一応史実の戦後オランダに実在した党なのですが、如何せんマイナー政党過ぎて党員がどのような人物だったか詳しくわからなかったので、フローニンゲン大学に通っていた経歴のあるフェルトマイヤーを党首にしました。