第289話 第2次世界大戦<19>
1940年が終わり、1941年を迎えた人々に最初の衝撃を与えたのがドイツ軍によるヴェルサイユの破壊だった。
ドイツ軍司令部がおかれていたこの地では悪化する一方の戦況と、本国からの死守命令との間で板挟みとなっていた司令官ハインツ-グデーリアンは中立国大使を通じてのフランス側との休戦を模索するも、フランス側がこれを受け入れることはなく、ドイツ軍にとっての戦勝記念碑となるはずだったパリが処刑場となっていたことに愕然としつつも、なおも休戦の可能性を模索しつつづけたが、その結果として本国からの訓令により解任、のち処刑されたことによって、残されたドイツ軍部隊は死の恐怖と闘いながら報復を恐れて脱出のために決死の抵抗をしている者たちと絶望的な状況であっても少しでもフランスに打撃を与えようと考えていた熱狂的なルーデンドルフ支持者たちだった。
そして、ルーデンドルフ支持者たちは自らの死と引き換えに世界に誇るフランス文化の象徴であるヴェルサイユの破壊を望み、脱出を願うものたちはそんな彼らを餌にしてフランス軍をはじめとする大協商各国軍の目を引き付け、その隙に脱出することを望み、実行に移されたのだった。この、ルーデンドルフ支持者とそれ以外の温度差はドイツ軍内のみならず国内においても強いものがあり、ドイツの敗勢が強まるにつれて各地で表面化していくことになる。
一方、パリからの撤退の報を受けたルーデンドルフは無人飛行爆弾によるフランス共和国臨時首都トゥールへの報復攻撃を命じたが、これはイギリスから供与されていた気球搭載型の対空電探による早期警戒網と自動装填装置付きの対空砲であるグリーンメイスおよび革新的な対空兵器であるブレーキマイン対空誘導弾によって阻止された。特にブレーキマイン対空誘導弾はハンガリー出身の技術者であるカルマン-ティハニの協力によって赤外線誘導方式となっており、無人飛行爆弾のラムジェットエンジンの排熱を感知して効率的な迎撃を行なった。
こうして軍事的には何の成果も見せなかったトゥールへの報復攻撃だったが、政治的にはパリに続きトゥールもドイツ軍の激しい攻撃に見舞われたことから、フランスではそれまでの中央集権を改め地方への機能分散の動きが広がることになり、フランス政治の転換を生み出すきっかけにもなった。
そのころ、トゥールへの報復攻撃と時を同じくしてバルカン半島では新たな戦端が開かれていた。
亡命オーストリア=ハンガリー帝国軍を先頭に主に英領インド帝国軍やブルガリア帝国軍を中心とする大協商によるバルカン半島を北上してかつての帝都ウィーンを目指す大攻勢が始まったのだった。
また、この攻勢開始を合図としたかのようにルーマニア王国やモンテネグロ=セルビア王国などそれまで中立を保ってきた諸国も次々と参戦を表明した。その多くは弱体であり兵力としてはあまりあてにならない国々だったが、それでもこうした国々がですら大協商の側での参戦を表明したということは、世界の国々がドイツの敗北は近いと判断していたようなものだった。
そんな中でも中立を保ち続けていたのがオランダ王国とデンマーク王国、スウェーデン王国、ノルウェー王国などであり、特にスウェーデンではその中立政策を発展させた『北方人種の家』という概念が国民の間で広がりを見せていた。
これは国内に多数のドイツ人亡命者を抱えていたことから、彼らからの反発をかわしつつ政権獲得を目指していた社会主義政党であるスウェーデン社会主義協会、通称SSSの綱領の中で使用された概念であり、優良なる北方人種を維持するためのフランスの多産政策である1917年7月10日選挙法、いわゆるルロー=ドゥガージュ法を範とした女性参政権の容認および教育や育児に関する国家による積極的な補助がなされる一方で障碍者や犯罪者等を断種する社会主義的かつ優生学的な内政、孤立主義的外交政策とそれらを維持するための軍備拡張の3つを中心とする新たな国家体制の樹立を目指したものであった。
また、スウェーデン社会主義協会は最大野党であった国民自由党党首で首相経験者であったカール-グスタフ-エクマンと親交の深い実業家イーヴァル-クルーガーがウィーン-ロートシルト家当主ルイ-ナタニエル-フライヘル-フォン-ロートシルトとかかわりがあることを指導者であるスヴェン-オロフ-リンドホルムが批判していたことからは必然的に反ユダヤ主義的傾向も強くなった。
当初、こうした動きはスウェーデンのみで起こっていたが、最近では隣国であるノルウェーにも広がりを見せており、やがて、『北方人種の家』という概念に基づいたこれらの2国による連合構想へと発展することになる。
その背景にはノルウェー、スウェーデンがロシア帝国を共通の仮想敵国としており、特にアレクセイ2世のユーラシア主義とそれに基づくフィン人への優遇策(あくまでロシア帝国国民としての優遇であって、独立などを認めたわけではない)は北方人種の故郷である北欧への脅威であると受け止められたからであり、少数派になりながらもノルウェー、スウェーデン国内に残留していたフィン人たちを追放するなどの措置を行なった。
一方で北欧の国の中でも独自の動きが目立ったのがデンマークであり、これはデンマークがドイツの主要港であるキールに近いことからドイツ側が懐柔策を行なっていたことに加えて、大協商の側もドイツ打倒後の対米戦に見据えて、デンマーク領であるグリーンランド、アイスランド、西インド諸島を利用するべく工作を行なっており、デンマークはドイツと大協商が直接接することのできる場所としてその中立国としての地位を確立することになる。これは同様に中立であったにもかかわらず親ドイツ国家、準敵国と見做されたオランダとは対照的であり、第二次世界大戦によって国家の明暗が分かれた代表例とされている。
SSSはスウェーデンの社会主義者の集まりあるいは集会と訳すのが正しいようですが、どうもしっくりこなかったので社会主義協会としました。