第287話 パリ奪還
1940年12月27日 フランス共和国 パリ ブローニュの森
『ロンシャン競馬場跡地に敵車両、おそらく3号』
「くそ、休息はさせてくれないか」
無線を聞いた百武俊吉少佐は帝国陸軍期待の新鋭戦車である97式中戦車改の車内でそういった。
遣欧軍の一員として派遣された百武少佐はブレスト港に着くとそのまま攻防戦が続くパリへと送られた。そしてそのまま先鋒としてドイツ軍を排除しながら、北側からパリ市内へと突入した。
遣欧軍が栄えある先鋒を任されたのは97式中戦車改の性能が期待されてのことだった。開戦以前にフランスよりもたらされた装弾筒付き徹甲弾は帝国陸軍にとって期待の新兵器であり必然的に次世代戦車はそれを装備することが求められた。
フランス企業から派遣された技師によって格段に進歩した鋳造技術もあって次世代戦車は鋳造装甲を持ち、加えて装弾筒付き徹甲弾を装備した35トン以上の戦車であることが求められた。35トンという重量に関して鉄道輸送を考えれば過剰であると考えられたが、意外にも鉄道省の側は乗り気だった。
これは民間の高速電気鉄道である日本電気鉄道の開通に加えて近年では自動車も普及し、さらに航空機も将来的にはより身近な存在になるだろうと考えられたためであり、そのためにはそれらでは運送が難しい大重量貨物の運搬に活路を見出したため、主要幹線の強化を行なおうと考えてはいたのだが、政党内閣の下では選挙基盤となる地方路線の拡充が優先されたためとん挫していた。しかし近年では戦時を理由に急速に路線強化が推し進められ、結果として重量36トンとなった97式中戦車は採用されると当時叫ばれていた比島決戦のために量産されていったが搭載された新機構のためにその量産は難しかった。
新機構とは海軍が夜戦用に開発していた暗視装置を小型化したものと、90mm高射砲を流用した主砲が日本人では装填が難しいと考えられていたために装備された半自動装填装置だった。
特に暗視装置は問題を解決するのにはかなりの時間を要し、解決されたころには比島決戦どころかすでに対米講和すら終わっていた。しかし、それでも来る欧州戦を合言葉に量産が続けられていたが、陸軍内部にもその価値を疑問視する声が出始めていた。だが、名目に過ぎなかった欧州への派兵が本格化すると97式中戦車を求める声は前線から多く寄せられた。そして、97式中戦車を装備した遣欧軍とドイツ軍がイタリア半島において繰り広げた死闘により大協商の内部でも駒ではなく戦力として日本軍を評価する意見が増えていった。
一方で火力に関しては特にドイツ軍の4号戦車には劣ると考えられていた(もっともこれは日本に限った話ではなかった)ため、複数両による連携射撃といった戦術的工夫以上の抜本的な解決が求められるようになっていった。
そこでフランス人技師の技術指導により97式中戦車の砲塔を自動装填装置を備えた105mm砲用の揺動砲塔に換装した97式中戦車改が開発された。本来この揺動砲塔はフランス軍の次期戦車用に開発されていたものだったが、これにより攻撃力は増強され、ドイツ軍から新砲塔として区別され、恐れられる存在となった。
こうして97式中戦車改を装備した遣欧軍はクリスマスまでにパリを解放するとの号令の下進撃していたがすでに2日超過していた。
(お、日本機か)
3号を撃破し、車両から身を乗り出した百武は飛来した95式戦闘機が翼下に吊るした噴進弾と機首の37mm機関砲で対地攻撃を行なう様子を見ながらそう思った。戦闘機としてジェット機まで出てきた欧州戦線ではやや劣っていたが、それでも対地攻撃機としてはいまだ現役であり、パリの戦いにおいても対地攻撃機として活躍していた。
(それにしても日本人ですらこうして他国のために命をなげうっているというのにイギリス人は高みの見物とは…まったくけしからん。不誠実なアルビオンという言葉を信じたくなるな)
イギリスはパリの戦いへの参加には消極的だった。
厳密には全く参加していないわけでもなくヴィッカース-ヴィクトリー爆撃機を改造した電子戦機による妨害によってドイツ軍の無線や対空電探を妨害していたほか、より直接的な航空戦や対地攻撃をするなど支援自体はしていたのいだが、地上にはイギリス兵の姿はなかった。
これはイギリスが当初、パリへの攻撃によってフランス政府の機能が消失したわけでもなく、むしろトゥールにて残存していることから、ドイツ軍の戦力を誘引する出血点として機能させるようにと考えていたが当然自国の首都でいつまでも血みどろの戦いを続ける気はフランス政府にはなく。両国間には軋轢が生じた。結果的にはイギリスの読み通り、ドイツ軍の側が損耗に耐え切れなくなっていった。大協商を驚嘆させた新装備も予備部品が届かなければただの置物に過ぎずドイツ軍司令官であったハインツ-グデーリアンが名誉ある降伏を条件に降伏を願い出た際に両国の対応は決定的な違いを見せた。イギリス側が今後のドイツ本土進攻のために戦力を温存するべく、それを受け入れるように提案したのに対し、フランス側は『ドイツ人に与えるべきは名誉ではなく死のみである』と拒否し、徹底的な殲滅戦を主張して、さらにイギリス側を不誠実なアルビオンと呼んで非難した。
この不誠実なアルビオンとはイギリスが外交において時折見せる背信的な行為をさす言葉であり、例えばウィリアマイト戦争を終結させるリムリック条約においてカトリックの地位を保証したにもかかわらず反故にした事例や同盟を結んでいたにもかかわらずセシル-ローズの利権のためにポルトガルの植民地獲得を妨害したことなどおおむねイギリスを非難するために使われるフレーズだった。最近ではイタリアにおいてイタリア北部の諸都市への独断での空爆のことをさしてつかわれていた。
こうした内部での対立もあり、前述のとおりイギリス軍は支援を除いては不参加だったが、しかし、だからといってフランス側が手を緩めるはずもなく、ドイツ軍は戦死するか投降してフランス人に街路につるされるかの選択を迫られていたのだった。
(しかし、いい加減どこかで休みたいものだ。何しろブレストから戦い続けだからな…まぁ、年が明けたころにはヴェルサイユで休息を取れるだろう…とはいえまずは気を引き締めねば)
疲れのせいか生じた浮ついた気持ちを落ち着けた百武だったが、この後ドイツ軍司令部がおかれていたヴェルサイユ宮殿がドイツ軍の最後の抵抗として爆破され、一部を除いて焼失することになるなど知る由もなかったのだった。