第281話 独立宣言と報復兵器
1940年9月1日 ポーランド自治社会主義共和国 ワルシャワ ワルシャワ放送局
イェンジェイ-モラチェフキ、ポーランド自治社会主義共和国首相は震える手で原稿を持ちながら放送を始めた。
「この放送を聞いている全国民、全兵士につげる。我々は今、ロシアで、イタリアで、フランスで、ベルギーで戦っている。それは社会主義勝利のためだと私は繰り返し話してきた。だが、私は今日、この場で自己批判する。すべては嘘だったのだ。どうか、思い出してほしい、20年前の革命で我々は何を得たのか?確かにロシア人もオーストリア人もいなくなった。だが、ドイツ人は残った。彼らはいまだに我々を奴隷のように扱い続けている。それでも我々がその仕打ちに耐える必要があったのは、ロシア人という野蛮なるタタールの暴虐なる支配下に再び置かれることを避けるためであり、そして何よりもあの悲惨な分割下でヨーロッパのキリストであろうした先人たちと同じように社会主義のための殉教者として死すことによる自己犠牲のための誤った陶酔感のためだった。そして我々は今もロシアの大地において父祖の栄光を取り戻し、わが民族の安寧を築き上げるためにこそ戦い続けている。だが、ドイツ人は我々に対し、西部戦線における夢想的な勝利の試みを追求するために犠牲になれと我々に対して言ってのけた。我々はもはや耐えることはできない。我がポーランドはここに独立を宣言する」
短い放送をいったん終えるとモラチェフスキは続いて大協商との間でひそかに行われていた講和交渉の中で、認められた講和案について話し始めた。独立後のポーランドについては大協商を構成する一国ではなく、共同交戦国としての地位が認められるとされており、モラチェフスキはそれ以上は話さなかったが、共同交戦国は従来の大協商構成国とは異なり、兵器の供与や技術交流について厳しい制限がかけられているなど、明確にもとは敵国であるという不信感が現れた扱いだった。領土については高名なピアニストでありポーランド独立のための活動家として80歳になる現在も活動しているイグナツィ-ヤン-パデレフスキが纏めたポーランド合衆国構想に近いものだったが、白ロシア方面の国境がべレジナ川となって、後退する代わりにパデレフスキの提案でもドイツ領とされていた東プロイセンがポーランド領となるなどやや修正されたものだった。
この領土範囲の決定にはかなりの駆け引きがあり、早期のポーランド参戦により戦局を打開したいフランスなどの大陸諸国とアジア各国と復讐あるいは戦後秩序の為にできるだけ勢力を削ごうとするロシアとイギリスが対立し、間をとるような形でドイツ領が削られる形になったがもっとも不幸であったのが、バルト海に面したリトアニア、ラトビア、エストニアの3民族からなる沿バルト自治社会主義共和国だろう。何しろリトアニアとクールラント地域をポーランドに、クールラント地域を除くラトビアとエストニアをロシアに譲渡することにより分割されることが確定していたからだった。
この日の演説によりポーランドは独立と講和を成し遂げ、新たな対ドイツ戦線の参戦国となることが明確に示されたがそれを黙って許すほどドイツという国は甘くなかった。
1940年9月1日 ポーランド自治社会主義共和国 ワルシャワ ウヤズドフ城
「とっとと歩け、ドイツ野郎」
モラチェフスキの放送からすぐ後、陥落させたドイツ人民軍ポーランド駐留軍司令部の所在地であるウヤズドフ城のすぐ外では降伏したドイツ兵たちにたいして、戦車の砲を向けて威嚇していた。戦車はすでに旧式化していた1号戦車に増加装甲をつけただけのものだったがもちろん生身の人間相手では十分すぎる威力を誇るものであり、ドイツ兵たちはそれが発砲されたときに何が起こるかを十分なほど熟知しており、整然とした行進にもかかわらずその目は虚ろでありどこか無気力だったが、ポーランド兵からすればそうしたドイツ兵の態度は、自らが優位にあることを再確認させるものだった。
「すぐ落ちてよかった」
車長であるボレスワフ-ボグダン-ピアセツキは安堵して呟いた。
東ヨーロッパ随一のワルシャワが戦火によって包まれることを避けたかったのもそうだが、一番、恐怖すべきことは大協商陣営の東部戦線において最大の兵力を誇るロシア軍が国内に進駐してくることだった。かつてのロシア人の振る舞いはポーランド人ならばよく知っており、ロシア人が進駐してくるなど悪夢でしかなかったし、近年その傘下に加わっているタタール人などのムスリムに関しては考えることさえ論外の恐怖だった。
正確にはロシア軍もタタール人などのムスリムについては極力排除しており、それらが多く属しているのは親衛隊だったのだがそんなことはどうでもよかった。ただ、愛するポーランドにそれらを引き入れない、それこそがピアセツキが最も重視していたことだったからだ。だが、ピアセツキが思考できたのはそれまでだった。ワルシャワの市街地は突如、激しい砲撃に見舞われ、ピアセツキもその中で命を落としたからだった。
砲撃を行なったのは東プロイセンの最南部に位置するタンネンベルク-ブンカーと呼ばれる秘密施設に設置された世界初の多薬室砲だった。射程約150km誇るこの砲は、当初はパリ砲撃の切り札と目されており、当初はその試験場として作られたものだったが、ポーランド自治政府による不審な動きを受けて、いざという際にワルシャワを砲撃するための報復兵器としての役割に急遽、変更され、その時が来るのをずっと待ち続けていたのだった。報復兵器に多薬室砲が選ばれたのは、ワルシャワにはドイツ本土と同様の濃密な防空網が構築されていたからだった。ドイツ人が無敵の盾と信じる防空網を突破するのは通常の航空機では不可能と考えられたからだった。
そして、モラチェフスキの演説を聞いたエーリヒ-ルーデンドルフが激怒して砲撃の開始を自ら直接命令すると、ドイツの誇る技術者であるコンラート-ツーゼが作りあげた電子計算機に制御された多薬室砲は正確に動作し砲撃を開始したのだった。
さらに、死亡したピアセツキが知ることはなかったが、多くのポーランド軍部隊がモラチェフスキの演説とその後のワルシャワとの通信途絶により混乱状態に陥りそのまま混乱の中でドイツ軍と戦うことを強いられた。中央政府であるポーランド自治政府の消滅は、大協商各国にポーランドの能力に疑問を抱かせることにつながり、その後のロシア軍をはじめとした大協商構成国軍の派遣へとつながることになる。