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第275話 第2次世界大戦<14>

1939年にアメリカ合衆国が講和に応じたことにより残る一国で戦争を続けることになったドイツ自由社会主義共和国だったが、まったくと言っていいほどその強硬な姿勢を崩そうとはしなかった。これは、第一次世界大戦のときと同じく、ロシア人とアジア人を侮っていたためだったが、一方で、戦線が膠着しきっていることも事実であり、激戦地リヨンからの撤退と北部イタリアへの侵攻、そして、ギリシア-トルコ連合、イラン民主連邦共和国にゆさぶりをかけるためのコーカサス方面への作戦行動を行なった。


一般市民はリヨンの解放を喜び、その勢いでイタリアからのドイツ軍の撃退を訴えたが、大協商首脳部はこれが北イタリアという地を巨大な出血点にしようとする考えであることを見抜き、その対応に苦慮していた。


また、コーカサス方面に関しては山岳地帯という天然の要害はあっても、そこに住む民族は多種多様であり、かつてのロシア内戦の折に反アレクセイ2世派であったグルジア人などにはドイツ軍に協力するものなどもいたこと、そしてなによりもロシア自体に救援のための余力がなかった事もあり、戦況はドイツ側有利に進むことになる。


これに対して特に近東へのドイツの進出を脅威と考えたイギリスは、それまで親ロシア国家として義勇兵派遣はしても参戦には応じていなかったアルメニア共和国を動かすためにアルメニアに対し、フランス勢力圏であるキリキア地域に加えて、ハーシム朝アラブ帝国とイラン国内のアルメニア人居住地域にて"特別な地位"を保証することを条件に参戦を促した。これはアルメニア側には公式に大アルメニアの実現を後押しするものと受け止められ、のちの近東における紛争の発端となった。


一方で対照的であったのが、ユダヤ人であり、移民数を制限されてもなおパレスチナの地に住み続けていたユダヤ人たちは正式に移送が決められた。当初はイタリア領東アフリカに存在するユダヤ人自治州への移送が考えられていたもののヘリオガバルス作戦に始まったイタリアの混乱により移送はできても受け入れは困難であったことを理由に、古くからユダヤ人が多く居住していたイギリス保護領イエメンの南部に居住させられた。


このユダヤ人移送については社会主義ドイツではいまだ多くのユダヤ人がおりそれらを積極的に活用していたことと、そうしたことからユダヤ人がドイツ軍と連携するのではないかという恐れからくる反ユダヤ感情が大きな理由とされていたが、一方でアラブ人に対する不信に基づく分断政策という側面もあり、インド洋の良港アデンを擁するイエメンの南部への居住を認めたのはそれが理由であった。アデンは比較的開発された都市ではあるが周辺をアラブ人に囲まれており、その維持にはイギリスの助力を必要とするであろうことから制御しやすいと考えられた。


しかし、こうした策を弄してもすぐに戦況が好転するものでもなく、大協商は即戦力を必要としていた。

アジア、太平洋方面の戦闘終了に伴い、遊兵となっていた日本と清国の軍こそがその即戦力だった。


これに対して国内では表立った運動こそ控えられていたものの、いまだ国民感情的に欧州での戦争の続行には否定的であったことから両国は難色を示した。


『アメリカとの戦いが終わった以上、我々の戦いは終わったも同然である』


とある清国の外交官は友人であった日本の外交官にそう言ったという。


だが、イギリス、フランス、ロシアの3国は引き下がろうとはしなかった。イギリスおよびフランスは、両国の発行していた国債に触れて経済的に脅し、その一方で、戦後の移民に対する優遇を約束した。ロシアは半ば捨て鉢となって航空技術をはじめとした数少ない先端技術の技術供与や両国企業による銃火器や戦車の現地生産などを両国に持ち掛け、自らを支援することによる利益を示した。


この硬軟入り混じった対応に両国政府も重い腰を上げたが、欧州に向けて最初に旅立っていったのは日本軍や清国軍ではなかった。


誰もがその存在を忘れていた国であった朝鮮王国とシャム王国の軍だった。


当然といえば、当然だが、イギリス、フランス、ロシアの3国は日清両国以外にも話を持ち掛けていた。

とはいえ、小国であったことから顔見世程度のものであり両国ともに2個師団の派兵がせいぜいであり、朝鮮軍は日系軍官と呼ばれるかつての十月事件によって逃亡した旧日本軍人が中心となった部隊を派遣していた。


しかし、それまで大戦において何の存在も見せなかった2国が派兵に応じたことは日清両国に衝撃を与えることになり、ことに日本においては、


『ここで派兵を行わないことは国際社会における戦後の帝国の評価にかかわる』


との意見が噴出し、世論は徐々に派兵論に傾いていった。清国においても軍閥化しつつある部隊をドイツ人の手ですりつぶしてもらえるのではないかという、半ば粛清目的での派兵論がひそかに議論されていくことになる。


これを知った各方面軍からは反発が続出し、一時は首都南京においてクーデター未遂事件が起こるほどだったが、これは意外なことに一般大衆の抵抗によって粉砕された。


軍閥化した各軍が同じ清国人である者たちを虐げていることは戦時中であってもうわさとして伝わっており、そうした者たちに支配されるぐらいなら、と大衆たちが抵抗したからだった。この失敗から軍閥たちの中から表立って反抗しようとする者はいなくなったが、逆にそのことが彼らを海外派兵に駆り立てることになる、つまり欧州戦域への派兵により、欧州各国との繋がりを得ることにより、列強を後ろ盾にした自らの地位の保全を狙ったのだった。


こうした様々な思惑が交錯する中で世界は1940年を迎えることになるのだった。

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