第268話 新戦車とダブリンのデモ
1939年6月24日 フランス共和国 リヨン郊外
「前方にドイツ戦車、タイプ2か…撃て」
サー-ハロルド-エドムンド-フランクリン少将指揮下の第44王立戦車連隊ジェラルド-チャールズ-ホプキンソンは自らの号令とともに放たれた砲弾がドイツ軍の2号戦車に命中するのを見て満足げだった。
イギリス陸軍期待の新戦車であるクルセイダーに装備された新型の3インチ砲は薬室部分の内径は76.2mmだが、砲口部は57mmである変わった砲だった。この砲は亡命チェコ人であるフランティシェク-ヤナチェクが開発したもので、利点として高初速化があるものの、それに耐えられるだけの砲弾の製造が難しいというデメリットがあったが、イギリス人は自らの影響下にある大清帝国で多くのタングステンが産出することに目をつけ、それを最大限活用することで補っていた。問題点としては他に対歩兵用の榴弾の使用ができないという問題点があったが、これについては砲塔に20mm機関砲を装備することで解決した。
しかし、ドイツ側もこれに負けじと新戦車を投入していることをホプキンソンは知らなかった。それまでの1号、2号戦車の要素を残しながらもそれぞれ、長砲身88mm砲と128mm砲を装備した車両である3号および4号戦車だった。
特徴としてはそれまでのドイツ戦車らしからぬ鋳造を多用した形状にあり、1号戦車の時にはエドゥアルト-グロッテ技師と共同で開発していたロシア帝国からの亡命ユダヤ人ヨシフ-ヤコブレヴィチ-コーチン技師が単独で開発を指揮したものだった。
この両戦車は大協商軍にとっては災厄そのものであり、特にそれまで車体共用化計画によって得られた利点を活用して必要な戦場に必要な数を供給することを主眼とし、また、実際にそれで戦果を挙げ続けたことから自らの"正しさ"を確信していたフランス軍にとってはその自慢の槍であった装弾筒付徹甲弾を防がれたことは大きな衝撃であり、街道上の怪物と呼んで恐れた。フランス軍ではこれを教訓に凍結されていた重戦車計画の再開へと舵を切り始めるがそれはリヨンへ投入するにはあまりにも遅すぎる方針転換だった。
しかし、一方で大協商軍には空軍力という優位があり、人造石油に頼りがちだったドイツ空軍を消耗戦に引きずり込むことで、その戦力を削ぐことに成功しつつあり、そのことから、徐々に空爆によってドイツ軍の補給線を脅かし始めた。これに対し、ドイツ側がパリ及びイギリス本土を目的としたなりふり構わぬ空爆作戦を展開するなど、状況はますます混沌化していく事になったが、ドイツ側の余力が着実にそがれていったのは紛れもない事実だった。
1939年7月3日 イギリス領アイルランド ダブリン
「我々には偽りの独立などは不要だ。今こそ真の自由と解放を」
ダブリンではこの日戦時下にかかわらずデモが行われていたが、その先頭に立つのは杖を突きながらも一際大きな声を張り上げる老人だった。彼の名はジェームズ-コノリー、今年71歳になる老人であったが、アイルランド独立を目指して行動していた社会主義者だった。
だが、声を上げるコノリーはとても71歳の老人とは思えぬほど生気に満ち溢れていた。それだけに彼のアイルランド独立に対する熱意が強いことを示していた。
コノリーはアイルランドのみならずイギリス国内外でも著名な社会主義者であったが、アイルランドは社会主義革命後もイギリスの影響下に置かれるべきというツィンマーヴァルト綱領に反対して独自の路線を貫いていた人間であったが、第二次世界大戦開戦後には、社会主義者であったことからドイツの工作員のレッテルを張られて警戒されていた。特にアイルランド独立に反対するアルスター義勇軍はコノリーに対する暗殺未遂事件を引き起こす過激な行動を行っていたほどであり、こうした過激派からのコノリーを保護するという名目で収監されていたのだが、コノリーはハンガーストライキを行ない、解放された。
イギリス側としてはコノリーの暗殺によるアイルランドでの混乱を恐れて、コノリーの収監を続けようとし、また、コノリーに対しても説得を行なったが、コノリーはあくまで釈放を望んだ。コノリーからすればアイルランドの現状は全アイルランド人が大英帝国という名の監獄の中に閉じ込められているも同然であり、そこから抜け出すためならば、自らが死んでもかまわなかったからだった。
こうしてコノリーは反イギリスとアイルランド独立に関する執筆活動を続けた。もちろん、そのすべてが戦時下であることを理由に発禁とされたが、それでもコノリーはあきらめなかった。
その一方でイギリスが血眼になって探していたコノリーとドイツとのかかわりを示すものは何一つ見つからず、ヘリオガバルス作戦並びにタンネンバウム作戦以前に欺瞞作戦として行われたドイツの支援を受けた武装蜂起計画もコノリーの政敵であったピーダー-オドネル率いる自由アイルランドによるものであり、コノリーも一時拘束されたもののすぐに釈放されていた。そしてこの日、コノリーに率いられた労働者たちはダブリンにおいてデモを行なっていた。
「警官隊だ」
そして、労働者たちの行進が総督府のあるダブリン城にさしかかると、人々は警官隊の姿に一瞬怯んだが、再び前進を続けようとして、中央に警官に厳重に守られた人物が立っているのに気が付いた。
(誰だ、今更、総督が路上で我々と交渉しようというわけでもあるまいに)
コノリーが訝しんでいると、ゆっくりと接近した警官たちはコノリーのたちの前で護衛の隊形を解き、中央にいる人物が姿を現した。
「嘘だろ」
「…猊下」
その人物を目にした瞬間人々に動揺が走り、中には跪いて十字を切る者までいた。なぜならそこにいたのはローマ教皇ピウス12世だったからだった。社会主義者であるコノリーとともにデモを行なっているとはいえ、多くが敬虔なカトリックである人々にとっては、衝撃的な出来事だった。ローマ教皇が、それもローマに対するドイツ軍の攻撃によって生死不明とされたピウス12世がアイルランドにいるなどとは考えもしてなかった。そしてそれはコノリーも同じだった。
そして、ピウス12世はいまだ混乱していた人々を前に、通訳を介してドイツ軍のローマへの攻撃がいかに残虐なものであったか、その攻撃によりどれだけのカトリック信徒が亡くなっていった、そして、炭疽菌により聖座が汚染されたことについて、ゆっくりと静かに、しかし、憤怒と悲しみを抑えきれないといった様子で話し続けた。
そのピウス12世の姿を見て、心を打たれなかったのはコノリーだけだった。イギリス支配への反対を訴えるはずだったデモは社会主義ドイツに対する聖戦を求めるものへ変わってしまったのだった。そのことを感じ取ったコノリーはただ愕然とするしかなかった。
実のところピウス12世は噓をついていた、ピウス12世はドイツ軍のローマ攻撃に居合わせていなかったからだった。ヘリオガバルス作戦発動以前にイギリスにもたらされたローマ教皇庁へのテロ攻撃という情報に従ってイギリス情報部はピウス12世をひそかにイギリス領マルタ島へと避難させていたからだった。このテロ攻撃という情報は戦後の歴史家によればポーランド閥より流されていたもので、最高機密であったヘリオガバルス作戦の詳細に触れることができなかったため、あいまいなものになってしまったといわれているが、ともかくピウス12世は、ここアイルランドへとたどり着いていたのだった。
その後、大戦中、ピウス12世はダブリン城を一時的な教皇庁として過ごすこととなり、戦後アイルランドを去ったのちもダブリン城には新設されたアイルランド総大司教がおかれることになった。これには時代錯誤との批判も協会の内外からあがったが、アイルランド人から概ね歓迎された。しかし、そうしたアイルランドでのカトリック勢力の伸長とも取れる動きはアルスター地域では当然ながら歓迎されず大きな反発を引き起こすことになる。