第251話 第二次世界大戦<4>
1936年3月25日、ドイツ自由社会主義共和国軍はロシア帝国との国境を越えて、東に向かって進撃を開始した。
この動きはフランス共和国及びベルギー王国とイギリスとの戦いに全力を注いでいると思われていたがために、ドイツとアメリカを除く各国は大きな衝撃を与えたが、海上封鎖が万全に機能しているととらえていたイギリスはドイツの動きを海上封鎖による苦境を脱するための収奪を目的とした作戦と考え、自らの作戦が"正解"であるとの再認識した。
一方のフランスは侵攻開始当初はこれを機にドイツ本国への攻勢をかけるべく準備を進めていたものの、まるで海上封鎖などはものともしない様な通常あるいは化学兵器の潤沢な砲弾備蓄をもって反撃してくるドイツ人民軍を前に後退を余儀なくされてしまう。
この敗北によりフランスは未だ未参戦を貫いていたイタリア王国に疑念の目を向けるようになる。つまり、かつての世界大戦と同じくイタリアがドイツに対し秘密裏に物資等を提供しているのではないかというのだ。フランスからすればスペイン王国で蜂起した旧政府派はイタリアの支援を受けているのだから、スペインをわが物とすべく動くイタリアが敵であるフランスを排除しようとしたがためにドイツと手を組むというのはあり得ない話ではなかったが、イタリア側からすればすべてが濡れ衣であり、イタリアとフランスの対立はより深まっていく事になる。
ドイツの対ロシア帝国開戦はアジアでも衝撃をもって受け止められた。
多くの反応は、海上封鎖に疲れ果てたドイツ人が自棄を起こして攻勢を始めたというものだったが、一方で第一次世界大戦での唯一の敗戦国と揶揄されるロシアが相手であることから、早々に白旗を掲げてドイツ勝利に終わるのではないか、という話も密かにささやかれていたりもした。
ともあれひとつわかっていたのは、極東社会主義共和国とロシアとの戦争は予想外の事態によってそのバランスは大きく極東の有利に傾いたということであり、実際、侵攻開始から暫くしてその効果は如実に表れ始めた。
前線で戦うロシア兵の内、正規軍、親衛隊の一線級部隊が次々と西へと送られていくようになった。残ったのはほとんどやる気のない二線級部隊であり、戦局は徐々に極東側が押し返すようになっていた。それと同時に極東軍は大清帝国に対して、人民の解放のための戦争として宣戦布告すると同時に先制攻撃を仕掛けた。
これはかつて自らが奇襲攻撃を受けた反省から、清国からの宣戦布告を前に攻撃を仕掛けようと考えられて行なわれたものであり、その効果は絶大だった。
数は多かったが、腐敗が蔓延し、戦闘らしい戦闘は国内民族独立過激派との戦闘しか経験していなかった清国陸軍に対し、数こそ少なかったがそれを友邦アメリカ合衆国からの援助による機械化によって補い、ロシアとの戦争によって鍛え上げられた極東陸軍は常に優位であり、開戦からわずか2週間ほどで極東陸軍は黄海に達した。
こうした敗報に南京にいた光緒帝は激怒し、陸軍大臣である張作霖を叱責したが、極東の優勢は覆らず、万里の長城一帯にまで引いて持久戦とを行なう事としたが、これは極東にとってまるで好ましい事ではなかった。なぜならば、極東としては清国に完膚なきまでの大打撃を与えたのちの休戦による後背の安全確保を目的としていたのであり、清国がこうして持久戦の構えを見せる事は想定外だったからだった。清国側の動きを考えずに奇襲攻撃を行ない勝手に休戦にまでこぎつけられると考えるあたり同盟国であるアメリカによる大日本帝国への奇襲攻撃と同じようなものだったが、兎も角、極東側は清国のこの姿勢に大きく困惑した。
そして強制的に交渉の場に引き摺り出すべく、新たな攻撃計画を練るとともに同盟国であるアメリカに対して攻勢の実施を要請することになる。
しかし、これに対してアメリカ側の反応は大きく2つに分かれた。
1つはそれを肯定的にとらえるもので、清国の台湾府への攻撃と占領によって、清国並び日本への圧力を与え両国をアメリカにとって優位な条件で戦争から脱落させる事が出来るという意見であり、海軍及び海兵隊から出されたものだった。もう1つは否定的なもので主に陸軍側から出されたものだった。彼等は日本本土奇襲攻撃後の日本側の反応を見るに、寧ろ両国に近い地域での作戦は無用な刺激を与えるとし、現状のカナダ及びオーストラリア方面での作戦を続行するとともに、南アメリカ大陸での戦闘に対しても本格的な兵力派遣をすることにより、日清両国の"飼い主"であるフランス及びイギリスが交渉の席に付く事を余儀なくさせる事で最終的かつ完全に極東の安全を担保するという対案を提示した。
後の歴史家によればアメリカ陸軍がこうした遠回りな戦略を提示したのは、本気で日清両国を怒らせる事を恐れたからではなかったという。当時、アメリカ陸軍がもっとも恐れていたのは海軍主導でこの戦争が終わってしまう事だった。
中央政府に対して不満の強かったカナダ西部地域や大西洋諸地域の中でも貧困地域であったノヴァスコシアなどは大統領であるハースト肝いりの情報機関である戦争情報局によるプロパガンダなどによって自発的にアメリカに協力するものが増えてきていたが、残る地域についてはその劣勢にも拘らず戦意は未だ高かった。このままでは、外交交渉によってカナダをその領土としても苦戦続きでありながら、政治家による交渉によって何とか勝利者となった陸軍に対し、開戦以来負け知らずで戦争を終えた海軍ということになってしまい、誰が見ても陸軍の方が一段劣ることになってしまう。だからこそ、陸軍という組織の名誉を守るべく、華々しい勝利が望める南北アメリカ大陸及びオーストラリア大陸における陸戦に陸軍は拘ったのだった。
そして、その裁定を行なう人物である大統領ランドルフ-ハーストはその年に行なわれる大統領選挙に向けて陸海軍に拘らずとにかく貪欲に勝利を求めており、海軍及び海兵隊と陸軍そしてハーストのそれぞれの思惑が一致した結果、陸軍と海軍及び海兵隊両方の案が一部修正の後、採用されてしまった。
こうして、極東には海軍及び海兵隊による台湾攻略の為の陽動作戦を行なわせるべく、最新鋭爆撃機HB-5と化学兵器が供与された。極東側は自らの意思を超えた戦争に巻き込まれた事をようやく理解し始めたが、一方で爆撃機と化学兵器に関しては対ロシアの為の切り札となり得ると考えて喜び、極力温存しようと考えた。
しかし、アメリカの意向に完全に背く事も出来ず、結果防備が手薄で、かつ清国にとって重大な衝撃を与える事のできる場所に対して使う事を決定した。何度目かの検討会議の後に選ばれた目標は曲阜。儒教の開祖である孔子の生まれ故郷であり、歴代王朝に保護されてきた正真正銘の聖都だった。だが、そのような歴史は極東側には何ら関係のない事だった。むしろそのような都市を攻撃する事で、神に対する信仰の無力さを知った者たちは模範的社会主義者になるであろうと本気で考えていたほどだった。
儒教と西洋的な一神教を同じものと見做す時点でその分析には誤りがあったのだが、とにかく攻撃は実施された。こうして1936年5月10日、曲阜の街には多数の化学兵器が散布されることになった。
この突然の蛮行に驚いた清国政府だったが、更にそれから16日後の5月26日にはバシー海峡を超えてアメリカ海軍の支援を受けた海兵隊と陸軍部隊が台湾府南部の恒春に上陸し、それ以上の衝撃を受けることになった。
こうして、台湾戦またはバトルオブフォルモサと言われる戦いが幕を開けたのだった。