表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
233/330

第233話 ロシア内戦

1927年5月に始まったロシア内戦は、ロシア軍内に大きな動揺をもたらした。各部隊がアレクセイ2世派とボリス大公派に分かれて戦闘を開始したからだった。例外はシベリアの共産主義者に備えるイルクーツク軍管区だった。イルクーツク軍管区は名目上の存在となり果てたアムール軍管区を除けばロシアでは最も東に位置する軍管区であり、共産主義者と向き合うというその性質から強烈な反共主義者であるヴャスチャフラフ-イワノヴィチ-ヴォルコフ中将が軍管区司令官としてあてられており、ヴォルコフは社会主義者と向き合うイルクーツク軍管区の責務を強調し、混乱の収拾に努めた。


一方で、懸念されていたフィンランド大公国やウクライナ、中央アジア、コーカサスでの動向は最悪、つまり独立よりはマシという程度だった。


各地でロシア人が殺されるというだけならまだいい方であり、酷い場合には同じ民族同士で親ロシアと反ロシアに分かれて戦闘を始める始末だった。そしてそれは時にロシア人に対するものよりも残虐だった。


フィンランドでは親ロシアと反ロシアに加えてスウェーデン系とフィンランド系という民族対立が絡み、ウクライナでは頭領(アタマン)であるピョートル-ニコラエヴィチ-クラスノフがアレクセイ2世派であったことからアレクセイ2世派となったドン-コサックに加えて、ユーラシア主義への期待感からノーマン-チェレビジバン率いるクリミアタタール人などがアレクセイ2世派につきボリス大公派のアレクサンドル-イリイチ-ドゥトフ率いるオレンブルク-コサックと戦った。コーカサスでは逆にユーラシア主義への不信感から正教会の保護を訴えるボリス大公派についたグルジア人などの正教徒がイスラーム系諸民族に対する虐殺を行ない、された側が仕方なくアレクセイ2世派を名乗って報復の大義名分とした。


コーカサスでの戦闘で得をした者がいるとすればアルメニア人だけだった。彼らはイェレバン駐留のロシア軍指揮官であるピョートル-ニコラーエヴィチ-ウランゲリから支援と引き換えにアルメニア共和国への領土返還を約束させており、名実ともにアルメニアの地が自らの手に戻ってくることにアルメニア人たちは喜びの声を上げた。


このウランゲリの協定はアルメニア人からの支援を得るための密約であった物をアルメニア政府側が公表したものだったが、ペトログラードから責任を追及されたウランゲリは銃殺刑に処されている。このウランゲリ事件により各地の軍の判断により国土が切り売りされる事を恐れたアレクセイ2世も、ボリス大公もお互いに勝利を求めて積極的に動くようになったが、一方でロシア本国での化学兵器使用に関しては双方ともに躊躇ったため通常兵器のみでの戦いとなった。


とりわけ、戦力的にアレクセイ2世より劣勢のボリス大公側は第一次世界大戦後の欧州各国での反ユダヤ主義の高まりに目をつけ『国際的なユダヤ人陰謀組織と戦う為の義勇兵部隊』、通称、国際旅団の創設に踏み切った。


この呼びかけに応じ、欧州各国からの義勇兵の他、アメリカや南米などからも義勇兵が駆け付けるようになった。国際旅団には自動車王であるヘンリー-フォードや香水王フランソワ-コティなどが豊富な資金提供をしていたため装備も良く、ジョン-フレデリック-チャールズ-フラー率いる自動車化部隊である『リチャード-ド-マルビス』などロシア陸軍正規部隊を打ち破った部隊もある一方で幾多ものユダヤ人居住区を文字通り消滅させたコルネリウ-コドレアヌ率いる『大天使ミカエル』のようにただただその残虐さで名を挙げた部隊もいるなど国際旅団の質は部隊毎に千差万別だった。アレクセイ2世の側もその戦果を受けて各国で義勇兵の募集を開始する事になるが、ボリス大公のように各国で広く信じられている反人種主義を前面に出しているわけではなかった為、その募兵は難航する事になる。


また、この国際旅団の結成に関して各国人が国境を越えて動いたことから、反ユダヤの戦いからロシア内戦終結後には反共の戦いに移行するのではないかと恐れたドイツ人民軍のエーリヒ-ルーデンドルフがフランス及びベネルクスへの奇襲攻撃を提案し、それに対してカール-リープクネヒトが逆にルーデンドルフの罷免を求めるなどドイツ自由社会主義共和国の政治闘争は国際旅団の結成を契機に次第に激しさを増していく事になった。


一方で、こうした国際旅団頼みの戦闘はボリス大公派についたロシア軍将兵にとっては徐々に不満を抱かせるものになっていった。


ロシアを守るためにロシア人同士で不本意な戦いをしているのにもかかわらず、隣を歩く外国人兵士の方が良い被服を着て、良い装備を持っているというのは全くもって納得いかないものであり、アレクセイ2世の側もロシア人に対しては戦列に加われば恩赦を与えるとしていた為、戦うたびにボリス大公派からアレクセイ2世派に降るものが増えていく始末だった。


こうして、1927年があける頃にはボリス大公派の多くは黒百人組出身者を除けば国際旅団が多く占めるようになっており、装備と資金は豊富だったがそれだけという有様になっていた。


1928年4月18日からおよそ6カ月にわたり行なわれたノヴゴロド市街戦では古都ノヴゴロドが廃墟となりながらも、ボリス大公側が何とかノヴゴロドを守りきったものの損耗は激しく、国際旅団の士気も低下した事から、その後はすぐにアレクセイ2世の支配下となり、ボリス大公側は本国ではペトログラードを残すのみとなった。


この段階で各国政府は国際旅団に参加していた自国出身者の救出に動き出し、見返りとしてアレクセイ2世のモスクワ政府は各国からの承認を勝ち取る事に成功した。これを受けたプリシュケヴィチは1929年1月9日に自殺し、ボリス大公はアレクセイ2世に降伏するも反逆者として処刑され、本国での戦闘は終わりを迎えた。残ったロシア本国以外の地域への化学兵器の使用に関してはアレクセイ2世は容赦する事は無かった。


このロシア内戦においては、両軍のヴェズジェホート同士の戦闘が行なわれた事から戦車対戦車の戦訓が重視された他、複葉機に比べての単葉機、非金属機に比べての全金属機の優位を証明し、また陸空を問わず装備火器の大口径化や無線通信や防御装甲の重要さが改めて認識された他、最後までウクライナ人が抵抗を続けていたリヴィウが化学兵器による攻撃により陥落した事や、コーカサスでゲリラ戦を展開していたボリス大公派にも化学兵器が使用され短期間で制圧された事から、化学兵器の使用が許されなかったロシア本国の戦闘との比較から化学兵器の使用は戦局を打開するためには必須であるとの戦訓が改めて認識される事になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] アレクセイ皇太子が君主として成長している。 [気になる点] アレクセイ2世は、かなりの反共反社会主義でしたが、彼の目指す先は社会主義の抹殺ですが、気が遠くなる目的ですね。 [一言] ロシ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ