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第230話 新球技と”国産機”

1926年6月20日 シャム王国 バンコク 

シャム王国はラーマ6世による立憲派の反乱鎮圧後、近代化を進めていた。だが、不幸な事にラーマ6世は自身の進めていた近代化政策の成果を見る事無く1年前に病死しており、その後を異母弟であるプラチャーティポックがラーマ7世として即位して継いでいた。ラーマ7世は政治の中心こそナコーンパタムのサナームチャン宮殿からバンコクへと戻したものの基本的にはラーマ6世の政策を引き継ぎ、ボーイスカウト兼ラーマ6世の親衛隊的存在だった虎部隊(スアパー)をさらに発展させた。これはラーマ7世がラーマ6世から後継者に指名されたのがその死のわずか1月ほど前だったことから、基盤を少しでも強化する必要があったからだったが、ラーマ7世統治下においては、男子児童は全て虎部隊(スアパー)に属する事が定められ、放課後には必ず虎部隊(スアパー)の年少部で活動し、愛国心と集団意識を叩きこまれるようになった。


『よーし、ハーフタイムだ』


訛りの強い英語でシャム人の少年たちを前に白人の男が声を張り上げていた。

ラウリ-ピカラ。フィンランド大公国の元オリンピック選手だった彼はフィンランドにおいてフィンランド人の健康増進と肉体強化のためにスポーツの振興活動を行なっていたが、民族主義活動家でもあったことからロシア帝国政府に睨まれ、国外を拠点に政治活動を行なっていた。5年前のロシアによる社会主義者の活動を理由とするフィンランドの自治権剥奪と占領に際してピカラは欧州各国政府にフィンランド人難民への対応を求めた際に無視され、同胞たちが結果として世界各地に離散した事は優生思想と白人至上主義、そしてヨーロッパの団結を信じていたピカラにとって衝撃だった。


一方でピカラにとって違う意味で衝撃的だったのは大日本帝国や大清帝国、そしてシャムなどがフィンランド人難民を積極的に受け入れていったことだった。


もっともこれにはそれぞれ各国の事情があり、大日本帝国や大清帝国が受け入れを行なったのは千島(後に樺太もこれに加わる)や華北といった未だ開発の進まぬ北部の諸地域に取りあえず人を入れる為であり、シャムに関しては未だ改正が進んでいない不平等条約の改正を求める為に、難民の人道的受け入れを成果の一つとして各国に示す狙いがあった。


しかし、こうした諸事情がありながらも難民の受け入れをしたことはピカラにとっては喜ばしい事であり、感謝を述べにシャムに赴いたピカラに対して即位したばかりのラーマ7世は国民の健康増進のため、スポーツ振興を行なうように求め、ピカラは自身が考案したペサパッロという野球を元にしたスポーツを普及させる事を提案した。ペサパッロは野球用のバットとボールを使うが、ルール的にはサッカ―に近い部分もあり元々はサッカーにはなじみがあっても野球にはなじみのなかったフィンランドでの普及を念頭に考案されたものだったが、ラーマ7世はこれを虎部隊(スアパー)の年少部で教えるスポーツの一つとして奨励した結果シャム国内では広く普及する事になる。


この経験から、ピカラは日本や清を訪れた際にもペサパッロの普及活動を行ない、後に東亜同文書院東京校と南京校がシャムの代表チームとの間で初の国際試合を行なう事になり、開会式では病床にある東亜同文会会長の近衛篤麿の代理として近衛文麿が祝辞を述べた。またこの国際試合に前後してアジア主義者の中でもシャムの存在が改めて着目され、その殆どはラーマ6世時代より引き続き行われている華人追放を批判するものだったが、一方で起源不明であったシャムの主要民族であったタイ族に関してアルタイ地方起源説が唱えられていた事から、当時流行していたトゥラン主義に関連付けて、南方トゥラン人と称する動きが生まれるなどシャムと日清両国との関係にも少なからず影響を与える事になる。


1926年10月8日 イラン民主連邦共和国 ハマダーン郊外 

一機の航空機が飛行場…という事になっている荒れ地に着陸して来ていた。


「なかなかいい調子だ。よくやった」

「…ありがとうございます。大佐」


機体から降りてきた操縦士モハンマド-タギー-ペシアンが駆け寄ってきた設計者の一人であるミハイル-ヨーシフォヴィチ-グレーヴィチに対してねぎらいの言葉をかけたがグレーヴィチの表情は硬かった。


グレーヴィチはロシア帝国クルスクのユダヤ人の家庭に生まれ、ハリコフ大学に入学したものの革命活動に加わったとして追放され、その後はフランス共和国に渡りトゥールーズのフランス国立航空学校に入学して航空技術者となったのだが、イラン民主連邦共和国成立後にかつて革命活動に加わっていた事に目を付けた元ボリシェヴィキ、アレクサンドル-パルヴスによってイランに招かれていた。しかし、招かれたといっても本業の航空技術者として仕事よりも整備士の仕事の方が多い有様でありグレーヴィチの不満は募る一方だった。


そんなグレーヴィチにイランの威信をかけた事業が任される事になったのは2年ほど前の事だった。きっかけはギリシア=トルコ社会主義連合が農民党インターナショナル、通称オレンジインターナショナルに加盟する友好国であるハンガリー民主共和国とともに共同開発した国産農業機を飛行させたことだった。共同開発と言っても実際に開発にあたったのはハンガリー人とドイツ自由社会主義共和国から亡命してきたチェコ人技術者であり、心臓部であるエンジンにしてもスウェーデン王国のABチューリンヴェルケン社製のものだったが、それでも初めての国産機という事になっていた。


これに対し、イランでも国産機を、という声から開発計画が始まりグレーヴィチは早速フランス国立航空学校時代の同級生で同じくユダヤ人だったマルセル-ブロックもイランへと呼び寄せて設計を開始した。


だが、その開発は苦難の連続だった。原因は独自設計の国産航空機を作れるほどの工業化が進んでいなかったことだったが、それでも何とか初飛行をさせてみたものの1号機は墜落してしまった。


飛行が4月10日の革命記念日に間に合わなかったことでグレーヴィチとブロックの立場は危ういものとなり、予想される最悪の事態を回避するために2人がとったのは"改良"の名目でイラン陸軍航空隊が採用していたエアコー社製戦闘機の構造を模倣する事だった。結果として無事に飛行こそ成功したが、技術者としては余り喜ばしくない結果となってしまったのだった。


イランで真の意味での国産機が飛行するのはまだ先の話だった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いわゆる中小国ががんばっているところ。 世界が広く豊かに感じられますね。 [一言] いつだったかツイッターで「1か月後日本がインドになる」という愉快なタグが流行した時に、「野球の代わりにク…
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