第229話 新航空会社
1926年4月11日 アメリカ合衆国 アラスカ準州 ジュノー
アラスカは1867年にアメリカ合衆国によって購入されて以降、その領土となっていたがその重要性はあまり高いとは言えなかった。近年ではノームやフェアバンクスでのゴールドラッシュが話題となったがそれだけだった。
「どうですか、ヒューズ…さん。カリフォルニアとは大違いでしょう」
「ええ、たしかにそうです。しかし、だからこそ投資する価値があると私は考えています。シアトルの連中が悔しがる顔が目に浮かぶようですよ」
(まったく若さというのは恐ろしいな。どう考えても不可能な事をここまで自信たっぷりに言えるのだから…それとも今までに苦労らしい苦労をしなかったからか、多分両方だな)
まだ若い男、ハワード-ロバート-ヒューズ-ジュニアはアラスカ準州知事ジョージ-アレクサンダー-パークスに対して自信たっぷりにそう答えたが、パークスはその答えを聞いて、多少の不安と共に目の前の男がなぜそこまで自信をもって答えられるのか考えていたが、それを顔に出すような事はしなかった。
パークスはアラスカで長く過ごした鉱山技師であるという経歴が大統領であるミッチェルの目に留まって任命された知事だった。就任後は準州の財政を好転させるべくアラスカ鉄道の運賃の値上げを行なうなど積極的な政策を行なったが、そんなパークスの悩みの種がワシントン州シアトルを拠点とする船会社だった。
何故シアトルを拠点とする船会社がパークスの悩みの種となっていたのかと言えば、話は前政権であるルーズベルト政権の時代にまで遡る。ルーズベルト政権で南部閥のまとめ役だったベンジャミン-ティルマンは自身の打ち出したサウスカロライナ州のチャールストン海軍工廠の拡張計画を進めるにあたり、同時期に進められていたワシントン州ピュージェット-サウンド海軍工廠の拡張計画の凍結と引き換えにシアトルの船会社へのアラスカでの独占的な利益独占をワシントン州選出の上院議員であるウェズリー-リプリー-ジョーンズに提案した。これによりジョーンズ商船法と呼ばれる法案が成立し、アメリカの船のみがアメリカの港の間を結んで運行する事が出来る、という条文を盾にアラスカへ行く、あるいはアラスカからくる船舶は一度シアトルへ寄港する事を強いられていたのだった。
このままでは、アラスカと本土との物流はシアトルの思うが儘に支配されてしまう、そう危機感を募らせたパークスはミッチェルの支援の下で解決を図ろうとしたが、ジョーンズは逆にアラスカでの独占的利益の固定化を狙っており、両者の板挟みになったミッチェルは結局、シアトルの船会社の利権を追認したが、その代わり航空機を使った新たな路線開設については口を挟まない事を求めた。これについてジョーンズは不満だったが、凍結されていたピュージェット-サウンド海軍工廠の拡張再開と引き換えに渋々同意した。こうして、アラスカでの航空路線開設の準備は整ったが、残念ながらそれを引き受けてくれるような会社が見つからなかった。
だが、一社だけ引き受けてくれた会社があった。カリフォルニア州ロサンゼルスに拠点を置くヒューズ-パシフィック-エアライン。テキサス州ヒューストンに拠点を置く石油採掘用ドリルビットの開発で巨万の富を成したハワード-ロバート-ヒューズ-シニアの息子であるヒューズが趣味と実益を兼ねて設立した航空会社だった。
「見ていてください、パークス知事。私はこのアラスカから世界を制して見せますよ」
まだ20歳の青年実業家の言葉にパークスはただ、よろしく頼むと言うしかなかった。ヒューズこそがアラスカの最後の希望だったからだ。
その後、ヒューズ-パシフィック-エアラインのアラスカ航空路線は当初こそ苦戦を強いられたものの、やがて順調に軌道に乗り始めた。シアトルの船会社によって決められた料金に誰もが不満を持っていた事が原因だった。ヒューズ-パシフィック-エアラインの成功を見たジョーンズはミッチェルに対しアラスカへの航空路線の規制を訴えたが、流石のミッチェルもこの要求にうなずく事は無く、結局、船便の料金改定と引き換えにシアトルの航空機製造会社で郵便事業なども手掛けていたボーイング-エアプレーン-カンパニーと合併する事となった。
この妥協にヒューズは不満だったが、ヒューズにとって悪い事はまだ続いた。所詮は弱小航空機製造会社と思っていたボーイングは合併直前にライト-マーティンの巨額の資金提供を受けた結果、新会社の株式保有割合はヒューズとほぼ同等となっていたからだった。
なぜ、ライト-マーティンが資金提供を行なったかと言えば、1つはアメリカ最大の航空会社アメリカン-トランス-オセアニック-カンパニーに対してライト-マーティンのライバルだったカーチスが深くかかわっており自らも傘下に航空会社を持ちたいと考えたからだったが、もう1つの理由としては分離を望む旧マーティン社閥はその中の急進派の避難場所としての役割を与えようと考えていた。
そうした事情はともかくこうして誕生したユナイテッド-エアクラフト-アンド-トランスポートはその後も順調に成功を重ねる事になる。特に極東社会主義共和国へのアラスカ経由での航空機路線開設は、アメリカと極東間での人と物の流れをそれまで以上に活発化させる事になり、また、国際線用として設計された機体、特にヴィンセント-ブルネリとチャールズ-モーガン-オルムステッドが設計したユナイテッド-エアクラフト『フライングウィング』はその名とは違い完全な全翼機ではなかったが、世界初のリフティングボディに双テール尾翼という形状は各国の関係者に衝撃を与え、後にアメリカ陸軍航空隊も改良を加え、HB-4『ハーキュリーズ』として採用した。
しかし、こうしたアメリカ航空業界の革新と極東社会主義共和国との関係の深化はアメリカを敵とする大日本帝国と極東社会主義共和国の存在を苦々しく思っていたロシア帝国の双方で危機感を強く抱かせる事に繋がった。
特に大日本帝国では樺太庁の防衛が強く意識されるようになり、その入植を後押しするべく国内において呼びかけが積極的に行われたものの、それまでの南方移民の移民先であった仏領インドシナにかわって蘭領東インドの中でも開拓が進んでいなかったニューギニアや英領北ボルネオなどへの移民が盛んだったため入植は低調であり、やむなくロシア帝国時代に流刑にされて取り残されていたポーランド人やウクライナ人、フィンランド人の居住をそのまま認めるという苦肉の策をとる事を余儀なくされる事になる。