第228話 救済と"奇跡"
1925年12月10日 フランス共和国 パリ
「本日もお集まりいただきありがとうございます」
中小の企業がひしめいていた電力業界を再編した手腕を認められて、フランス政府が35パーセントの株式を取得して設立された国有石油会社であるフランス石油の初代社長を任されているエルネスト-メルシェは会合の参加者に対してそういった。
この会合は数年前から定期的に行なわれているものだった。参加者たちの多くはメルシェも含めてある一つの組織に所属していた。フランス救済運動と呼ばれるこの組織はメキシコ風邪対策をはじめ内政の面で失敗しつづけたばかりか、共産ドイツという大敵の出現を前にしても政争を続けるフランスを救済する方法を見つけるために財界人、軍人などが集まった組織だった。
フランス救済運動の主な提案としてはかつてパトリス-ド-マクマオンが強引な王政復古を図って以来、凍結された大統領の議会解散権をはじめとする多くの権限の復活や全国的な産業振興とある程度の統制、公共事業の実施及びその助言者として技術者を積極的に登用する事と職能代表の議会への選出、そしてドイツ由来の悪しき思想である社会主義の完全な否定などがあった。こうした要求を実現する事によってフランス救済運動はフランスをドイツに対抗できる国家として作り替えようとしていた。しかし、一方でそうした提案を行ないながらも、フランス救済運動は議会政治からは距離を置いていた。フランス救済運動の目的は文字通りフランスを救う事であり、それは自らが政権を握る事が無くとも可能である考えていた為、現実政治には極力関わらずシンクタンクとして行動していた。
「やあ、諸君集まっているようだね」
そんな会合に一人の軍人が現れた。ルイ-ウベール-リヨテ、この会合の参加者の一人であり、アルジェリアやモロッコなど北アフリカでの作戦に従事し、またそこでイスラーム文化に触れた事により、フランス屈指のアラブ通でもあった。
そんな、リヨテの次なる任地と噂されているのが、北アフリカから遠く離れた仏領インドシナだった。
文官が任命される事の総督にリヨテが就任したのは、これまでの北アフリカにおける功績から未だ反抗的な仏領インドシナの原住民、特にキン族の反乱分子の鎮圧のためとされていたが、実際の所はリヨテを北アフリカから引き離すための方便だった。北アフリカで実績を上げ、そこに愛着を持って接するリヨテは本国から来た植民者の土地所有制限、宣教師の活動制限などのフランス本国と対立するような提案をする事もあり、本国としては、北アフリカからリヨテを一刻も早く引き離したがっていた。
「閣下、来られるのならば事前にご連絡いただければ…」
「いやいや、しばらくは君らの顔が見れなくなるからと思って顔を出しに来ただけだよ」
「さみしくなりますな…」
「よく言う、君らは実験材料が手に入ってうれしいのだろう」
「いや、そのようなことは」
「隠す必要はないよ。…だがあのハノイの計画は本当にやらねばならんのか」
「ええ、もちろんですとも、わが社の者が編み出した最高の計画ですよ、あれは」
「…また、君の所の自動車が売れるな」
「ええ、また工場を増やさなくては」
リヨテの疑問に対してモース自動車を事実上動かしているアンドレ-シトロエンが少々見当はずれな事を言い、それに対するリヨテの嫌みのような言葉にも、シトロエンは見当はずれな答えを返した。
ハノイの計画とはモース自動車の依頼で多くの住宅設計を行なってきた建築家であるル-コルビュジェにシトロエンが作成させたものであり、ル-コルビュジェがパリ改造の為に立案していたものを修正したもので、ハノイ市街に何棟かの巨大な高層住宅(ユニテ-ダビタシオン)を建て、空いた空間を緑地として再利用する事で衛生状態を改善するというものだった。パリの計画と違うのはかつての新黒旗軍の乱の苦い記憶から、緑地の中に退避壕やトーチカが設置されたり、住宅そのものが対爆構造とされている事だった。
シトロエンがパトロンになったことから、シトロエン計画と呼ばれるこの計画は仏領インドシナにとっては新黒旗軍の乱以降に行なわれた"文明化"政策の記念碑のようなものだったが、それでもなお現地での反乱の可能性を捨てきれないのは、新黒旗軍の乱以前の未開な現地人を上や病気から救うという"白人の責務"から行なわれたものだったのに対し、新黒旗軍の乱以降に行なわれた"文明化"政策は懲罰の色合いが濃いものだった事を自覚していたからかもしれない。
その他、仏領インドシナでは来たる改革の時にフランス本国で行われるであろう政策を実験的に行なうようにとフランス救済運動はリヨテに要請していた。
これにより、仏領インドシナ各地の産業は仏領インドシナ総督府が主導する産業計画委員会の統制下におかれ、その計画の下で発展していく事になる。インドシナの"奇跡"と呼ばれたこうした発展はインドシナ以外のフランス植民地でも模倣された他、隣国であるシャム王国、並びに大清帝国でも大きく取り上げられ、シャム王国では近代化の為の一つのモデルとして受け入れられ、大清帝国では漢人を中心とする財閥との間で政治的な緊張を作り出す事になる。
また、リヨテ自身のアラブ人やベルベル人を兵士として活用した北アフリカ時代の経験から、高原地帯にすむキン族以外の少数民族を兵士として採用していく事になった。
一方、フランスの同盟国である大日本帝国はこのインドシナの"奇跡"に際しては微妙な反応を示した。南方移民と呼ばれる移民たちが数多く入植していた事もあったが、それ以上に特殊会社である東洋拓殖を仏領インドシナ総督府が排除しにかかっていたからだった。
この事はフランス本国との間に外交的な問題を引き起こす事になったが、そのころに既にインドシナの奇跡によってリヨテ待望論が生まれていた事から、フランス政界の混乱がさらに深まってしまったのはリヨテをはじめとするフランス救済運動の面々からすれば皮肉なことだった。
もっとも、インドシナの"奇跡"に対する反応が否定的なものばかりだったかと言えばそうでもなく、例えば煙の都と呼ばればい煙と人口の急激な増加に苦しんでいた大阪などではその解消のためにシトロエン計画が参考にされるなど、日本にも少なからぬ影響を与える事になる。




