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第22話 新黒旗軍の乱

1907年 8月10日 大清帝国 南京

8年前の北清事変後に北京から南京へと遷都がなされて以来、南京は大清帝国の中心だった。

その南京にある明朝時代の宮殿を再建した新宮殿では、連日会議が続けられていた。


「陸軍は沿海州攻撃こそが最善策であると考えるものである」

「いや、それでは犠牲が大きい。海軍としてはサイゴン奇襲によるフランス東洋艦隊の撃滅こそが最善であると考えている」


開口一番、陸軍大臣聶士成と海軍大臣丁汝昌がそう言った。

そして、光緒帝はもう何度なく見たこの光景を前に頭を抱えていた。

かつては共に西太后らを征伐した2人がなぜこのような論争を繰り広げているかといえば、遠く欧州で勃発した第一次世界大戦が原因だった。


大清帝国に対し長く援助を続け、友好関係を築いていたドイツ帝国が眠れる獅子と恐れられる清国に対し、ロシア帝国領のシベリアないしフランス共和国植民地のインドシナに対しての攻撃を要請してきたのだった。

これに対し陸軍は沿海州方面での限定攻勢の後に、海軍はサイゴンのフランス東洋艦隊を奇襲で壊滅せしめた後に中立国による清国優位の講和を狙うという案を出してきた。

それぞれ想定が限定戦争なのは、陸海軍の双方が自分たちにはドイツが期待するほどの能力は無い、と自らの実力に対して適正な評価を下していたからだった。

何しろ兵器は武衛軍や北洋水師などの1線級部隊を除けば旧式ぞろい、高級将校は僅かな実力者を除けばカネとコネで成るもの、規律は1線級部隊ですら緩んでいるという有様だったので、当然と言えば当然だった。

更に言えば、こうした事から国民からの受けもあまりよくなく、見栄えのする戦艦などの装備で国家の威信をアピールする道具としてはともかく、本当に戦争をしようと言い出して賛成する人間が国会にいるとも思えなかった。


そうした論争が続けられている中で自分たちの思いもよらないところでそうした議論をひっくり返すような動きがある事をこの場にいる誰もが知らなかった。


1907年 9月7日 大清帝国 清仏国境

夜の闇の中に蠢く多数の影があった。彼らは何れも清国軍から横流しされた雑多な装備や外国製と思われる銃器で武装していた。


「いよいよですな」


フランスの傀儡国家としてベトナムを治めている阮朝の皇族の一人クォン-デ公がそう言った。

彼はベトナムにて阮朝の改革とフランスからの独立を求める維新会の一員として活動していた。ベトナムでの締め付けが強まると清国に亡命したが、1905年に清国政府はクォン-デ公の活動が南京議定書で定められた排外主義団体にあたるとのフランスからの抗議を受けて、維新会の解散を命じていた。

それからしばらくして、第一次世界大戦が勃発すると武力による祖国奪還の好機として独自に活動を始めていた。

それに乗ったのが劉永福をはじめとするかつての黒旗軍の面々だった。彼ら黒旗軍は雲南辺境の武装組織だったが清仏戦争においてはフランス軍相手に善戦するも、清国政府によって清仏戦争後に解散させられたという経緯もあり、ベトナム解放の戦いともいうべきクォン-デ公の提案に乗り気だった。


さらに劉永福を通して天地会をはじめとする民間の組織から武器弾薬を入手し、土匪とよばれる盗賊集団までもを味方に引き入れていた。


こうして、後に新黒旗軍の乱と呼ばれる事になる、仏領インドシナ最大の武装蜂起が行われようとしていた。

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