第218話 大災害
1923年9月1日、その日、大日本帝国に未曽有の大災害が襲った。正午まであと2分と迫った11時58分に発生した関東南部を震源とする大震災、関東大震災だった。
この大震災においては木造建築物の多くは延焼し、特に下町を中心に多くの建造物が被害を受けたが、一方で本所区にあった『グランド-ホテル-トウキョウ』においては着の身着のままの避難民を受け入れた。『グランド-ホテル-トウキョウ』は火災をものともせず震災を耐え抜き、当時流行に陰りが見えていたとはいえ存在感のあったエドワードバロック様式の建物は東京市民を守ったホテルとして一躍有名になった。
こうした大災害に対して国外ではヨーロッパ諸国や大清帝国などを中心に日本に対しての義援金や支援物資を贈る動きが活発化した。
ヨーロッパ諸国ではこうした義援金を贈る動き以外にも復旧支援と称して、被災した企業、特に銀行を中心に買収を進め日本への本格的な進出への足掛かりとしようとする動きも見られた。これは震災において弱っている隙を突いた行動であったが、そのはじまりはヨーロッパ諸国において第一次世界大戦以降高まりつつある反ユダヤ感情を受けて、いざという際の避難先を探していたフランス共和国のユダヤ人資本家アルベール-カーンが、放漫経営が続いていた東京渡辺銀行を買収しようとした事が切っ掛けであり、そのためヨーロッパ資本の多くはユダヤ系が多かった。彼らからの"融資"によって復旧は迅速に進んだが、このことは右派系の国粋主義者などに反ユダヤ主義的感情を持たせる事にも繋がった。
清国では皇帝である光緒帝自らが帝室財産から義援金を送ったほか、各地の財閥からも義援金が送られたが、これらの迅速な動きは清国内のアジア主義者の過激派によって、清国並びに財閥を列強、主にイギリスの傀儡として批判する事が増えてきており、それらへの対策として早急に日清両国の連帯を示す必要があったからだと言われている。また、他にも英領インド帝国などでも支援の動きが民族資本家を中心に見られた他、独自の社会主義体制をとっていたハンガリーやギリシア=トルコなどからもその経済規模故に少額ではあったが義援金が送られた。このことは基本的には清国との連携をだけを考えていた日本のアジア主義者にハンガリーやトルコといった存在を意識させ、後のトゥラン主義運動に繋がる事になる。
これらの支援を受けた当時の原敬内閣の動きは素早く被災者に対する支援と震災復旧の指示が出された。被災者支援に対しては軍、警察、民間団体などによって迅速に行われたのだが、問題は震災復旧の方だった。
東京市長であった後藤新平は『必要なのは復旧ではなく復興』と言い、総額13億円にのぼる一大計画案をあくまでも私案としながらも公表したのだが、これが国内特に地方から猛反発を受けた。
経済的に豊かな関西地方などでは、今こそ大阪または京都への遷都をと訴えていたし、また政府主導での開発計画が進みつつある東北などからは順調な開発計画を阻害すると同じく反対運動が起こり、さらに東京府内及び神奈川県内でも東京市及び横浜市中心の"復興計画"に反対する旧山梨県及び旧静岡県東部地域において分県運動を引き起こすきっかけになる等、提案者である後藤の想像をはるかに超える政治的混乱の引き金となったのだった。
こうした反対運動を受け原内閣は、関西地域への省庁の移転の可能性を匂わせることで反対運動を鎮静化しようとしたが、関東の復旧に関しては場当たり的な復旧策を打ち出すにとどまり、建造途中であった新国会議事堂の建設が不要不急な建築とされて延期されたり、建物の耐震化や防火対策などが進められた程度だった。
これに対し後藤は抗議の意を込めて市長を辞職したが、皮肉にも東京市民たちは粗末な小屋での生活を余儀なくされている自分たちの"現実"を見ずに、大災害を契機として壮麗な新しい東京を作ろうとする"理想"を掲げた市長の辞任に対して拍手喝采を送り、歓迎したのだった。
こうした混乱はありつつも震災復旧は進んでいったのだが、世界の誰もが日本の震災からの復旧を祈っていたわけではなかった。
列強各国の中で動きが異なっていたのはドイツ自由社会主義共和国とアメリカ合衆国だった。
ドイツでは地震発生に関して、『現在日本においてはプロレタリアートを中心に皇帝と帝国政府に対する不満が渦巻いており、極東における第2の革命の時は近い』とのカール-リープクネヒトの談話をスパルタクス団の機関紙である『赤旗』が掲載した事がのちに日本において問題視された。
この帝国政府に対する不満云々は、後の歴史家によると、当時地震の発生を受けて日本各地で唱えられた天譴論が誤訳されて伝わった物だとされる。天譴論とは災害の発生は乱れた世の中に対する天罰であるという考え方の事だが、その解釈は当然ながら人によって違い、政友会から進歩党への交代を唱えるものや、汚職一掃を目指して天皇親政を目指すもの、民本主義に基づく大衆の利益となる社会を目指すもの、更には無政府主義や社会主義に基づく革命を目指すものなど多種多様だった。特に進歩党支持者は天譴論を利用して原内閣倒閣とその党勢拡大を狙って問題視される事になる。
アメリカではミッチェル政権の混乱から公式の大々的な支援が行なわれる事は無かった。それでも民間レベルでの支援は、非常に迅速かつ大規模に行なわれたのだが、ムーリッシュ-サイエンス-テンプル-オブ-アメリカが同じ"アジア人"である日本人を助ける為の募金活動などを呼びかけた事から、徐々にそうした活動は疑惑の目で見られるようになっていった。人種と国境を超えた団結として語られたであろう美談は、黒人を『アジア人による侵略の尖兵』、『合衆国にありながら東洋の国々に忠誠を誓う裏切者』として恐怖と憎悪を持って語られる事になった。世界黒人開発協会アフリカ会連合の指導者であったマーカス-ガーベイがそうした偏見を払拭すべく"反アメリカ的な活動"の禁止を通達したほどだった。
こうした動きに加えて米独両国の日本に対する冷淡な態度を助長する事になったのが震災発生からほどなくして起こった、治安維持任務中の警視隊が無政府主義者大杉栄と伊藤野枝そして甥の橘宗一を殺害したいわゆる警視隊事件だった。
大杉は無政府主義者を称していたが一方で社会主義活動にも関わりを持っていた事から、ドイツでは社会主義の為に殉じた英雄とされ、かつての王侯貴族の像に代わり世界各国の社会主義者の銅像が建てられるようになっていたベルリンのティーアガルテンには大杉の銅像が建てられた。いっぽうアメリカでは橘がアメリカ国籍も持っていた、まだ6歳の少年であったことから、この事が日本への支援批判のプロパガンダとして利用されるようになっていった。
関東大震災は日本国内外に様々な影響を与えていたのだった。




