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第215話 自由と努力

1923年6月4日 ドイツ自由社会主義共和国 ベルリン 人民評議会議事堂

当初はフリードリヒ2世の弟ハインリヒ-フォン-プロイセンの為に建てられたことからハインリヒ宮殿と呼ばれていたこの建物はベルリン大学創設後はその本館として使われていたが、革命時のベルリン市街戦によって多くの建物が被害受けていた事から、比較的被害が軽微だったこの建物が臨時の人民評議会議事堂として使われていた。廃墟となったベルリン王宮を中心としたミッテ地区とティーアガルデン地区はミース-ファン-デル-ローエによって計画された機能主義的建築が立ち並ぶ形で再開発されるはずだったが、肝心の再開発が遅れていた為に依然として使用が続けられていた。


人民評議会は本来立法機関であるはずだったが、現状、元々主流であったスパルタクス団とドイツ社会主義研究会を中心にポーランドやオーストリアなど各地からの代表が加わった、かつてのフランス革命時の国民公会のような立法機関兼行政機関となっていた。


もっとも、主要団体であるスパルタクス団とドイツ社会主義研究会の間では特に経済政策の面で溝があり、社会主義研究会の勢力の強いドイツではルドルフ-ヒルファーディングが提唱した国家による産業統制を受け入れる事と引き換えに完全な復興までの暫定的措置としつつもクルップをはじめとする大企業が完全解体を免れ、温存されていたのに対し、スパルタクス団の勢力の強いポーランドでは国家主導の計画経済の名の下に当局による計画に従って生産が企画、実行されているなど依然として経済的には混乱した状態にあった。


「よってエスタ―ライヒ自由州とカルパト-ルテニア自由州、チェヒ-モラヴァ自由州、スロバキア自由州の加盟は正式に承認された。これは我がドイツにおける労働者たちの団結がさらに強固になった事を示すものである」


この日、議長であるカール-リープクネヒトの言葉に議事堂内では大きな拍手が起こった。


旧オーストリアの領域からなるエスタ―ライヒ自由州、ウクライナ人が多く住むカルパト-ルテニア自由州、チェコ人からなるチェヒ-モラヴァ自由州、そして、スロバキア人からなるスロバキア自由州はそれまで暫定的なものだったがそれが正式に認められたのだった。


各民族名が付けられることの多い自由州だが、チェヒ-モラヴァのみ地域名由来なのはチェコ人の多くが社会主義よりも自由主義を支持しておりトマーシュ-マサリクなどの自由主義的な独立運動家はフランス共和国に亡命して活動を続けていたため、ドイツ人によって作られた社会主義体制に対する反発から密かに国外に逃げるものも少なくなく、そうしたチェコ人の態度がドイツ人の反感をかったためだと言われていた。

一方、カルパト-ルテニア自由州に関しては元々ウクライナ人が多く暮らしていた土地だったが、ロシア帝国によるウクライナ(小ロシア)奪還によって、多数のウクライナ人がドイツ自由社会主義共和国になだれ込むと、彼らの多くは民族的につながりのあるカルパト-ルテニア地域への定住を望み、それが今回一つの自由州として加盟が承認されたのだった。


これには民族主義的な意識を未だに強く持つポーランド人やチェコ人、そしてハンガリー民主共和国に対する楔という意味もあったが、多くのウクライナ人は社会主義体制に対して忠実だった。


国名に自由を冠するドイツ自由社会主義共和国であっても、その自由を享受できるものは限られていたのだった。


1923年6月22日 ギリシア=トルコ社会主義連合 ズミルニ=イズミール コルドン地区 評議会議長官邸

国名においても、都市名においても、ギリシア語とトルコ語どちらを先にするかという問題は依然として存在していたが、それでもかつてのような流血の惨事という事は避けられるようになっていた。


かつて仇敵として争っていたギリシアとトルコの2つの民族は取りあえず和解を成功させていたのだった。尤もその要因としては北から迫るロシア帝国とブルガリア王国、東のアルメニア共和国と西のイタリア王国、南のハーシム朝アラブ王国とその庇護者であるイギリスという敵対勢力に囲まれているからだった。


「では、我が国と貴国の和解と友好に」


ムスタファ-スビ議長の言葉に対し、ハンガリーのヤーシ-オスカール外務大臣は微笑んだ。


ハンガリーから成立して間もないギリシア=トルコに対して外務大臣が訪れていたのは、ハンガリーの独立を守り抜くために国際社会における友好国を増やす必要性からハンガリーからの使節派遣を行なうことを決めたのだった。軍事的に見ればギリシア=トルコは大したことのない存在だったが、それでも、ドイツに飲み込まれないためにはある程度の独立した外交を行なう必要があり、ドイツに先駆けてのギリシア=トルコとの友好条約の締結に踏み切ったのだった。そして、オスカールがこの国を訪れた目的はそれだけではなかった。


「しかし、ドイツ人が聞いたらどんな顔をするでしょうな」


愉快そうにブルガリアの農民運動の指導者で、ブルガリア王国からの亡命者であるアレクサンダル-スタンボリイスキが言った。


「まぁ、連中は労働者が革命を起こせばそれで終わりだと思っているからな…私も人の事は言えないが」


トルコにおける革命の中心人物の一人だったミールサイト-スルタンガリエフがそう言った。元ボリシェヴィキであるスルタンガリエフは革命後にはまず工業化を志向していたが、対オスマン帝国戦争の傷跡は未だ残っており、加えてアルメニアからの攻撃を逃れて西にやって来る者たちも多い現状では、工業化は困難と結論付けられ、代わって食料の安定供給の為に大規模な土地収用と分配、農業の近代化が先に推し進められることになった。トルコよりもさらに工業的に遅れており頼みの綱であった海外からの送金も革命によって失ってしまったギリシアにおいても同様だった。


スルタンガリエフはこの決定が不満ではあったが、亡命してきたスタンボリイスキとの対話の中で考えを変化させていった。こうした農業を重視する姿勢はハンガリーもまた同じであり、ハンガリー1国で自活する事を強いられているハンガリーにとって食料を調達するために農業改革を進めるのは当然の事だった。


こうしたギリシア=トルコ及びハンガリーにおける動きをドイツは嗤い、列強諸国は無視した。それでも彼らは改革をつづけた。それこそが自分たちの国家をより強固なものすると信じているからだった。


そしてこの日、その努力が一つの組織を作り出す事になる。熟した麦の穂の色であるオレンジをその象徴とすることからオレンジ-インターナショナルとも呼ばれる事になる農民党インターナショナルの設立が宣言されたのだった。


当初、加盟していたのは、ハンガリーとギリシア=トルコの2カ国に過ぎなかったが、やがて、未だに工業化の進まぬイベリア半島のポルトガル王国とスペイン王国や伝統的に重農主義的な政党の多い北欧各国や植民地時代からの大土地所有に反発の多かった南米各国などから多くの組織が加盟する事になり、後に社会主義運動はドイツの第3インターナショナルを中心とした労働者の社会主義と農民党インターナショナルを中心とした農民の社会主義に分裂する事になる。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 非常に面白い! 「熟した麦の穂の色であるオレンジをその象徴とすることからオレンジ-インターナショナルとも呼ばれる」 人間の顔をした共産主義という感じがして素晴らしい。 スルタンガリエフ…
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