第210話 鎮圧
1922年7月1日 モロッコ王国 フェズ 郊外
モロッコはドイツ軍の撤退後にはアフメド-アル-ライズリが主導する形で正式にムーレイ-アブドゥルハフィードが復位していた。シャルロッテ-アマーリエ会議によってモロッコの保護権を移譲されたフランス共和国は直ちにその保護下となるようにムーレイ-アブドゥルハフィードに対して通告したが、排外主義者であるアフメド-アル-ライズリは当然、これを拒絶し、結果フランスは"モロッコにおける平和と秩序の為の作戦"を実行する事となった。そのなかには、アルザス奪還作戦において捕虜となった元ドイツ軍兵士や社会主義ドイツからの亡命者で構成されたフランス外人部隊第4外人連隊の姿もあった。
「まったく、こんな砂漠に来ることになるとはな」
第1中隊中隊長を務めるアルベルト-ケッセルリンクは何度目かの溜息を吐いた。
ケッセルリンクのように社会主義化した祖国に戻ろうとせず、他国で活動するドイツ人たちは多かった。だが、そんなケッセルリンクにとってもそれまで経験した事のない砂漠の暑さはこたえるものがあった。緑が生い茂る山々もあるのだが、今のケッセルリンクにとってそれはただの景色に過ぎなかったため何の意味も無かった。
ふと上を見ると、フランス陸軍航空隊の初の全金属製爆撃機であるウィボー2が空を飛んでいた。新興航空機会社のウィボー社を率いるミシェル-アンリ-マリ-ジョセフ-ウィボーが設計した新型爆撃機であり、ドイツのユンカースJ1とは違い複葉でこそあるものの画期的な機体だった。
その機体に搭載されているのは化学兵器であるという事は部隊の誰もが知っていたが、口にしないことだった。
フランス軍、特に指揮官であるシャルル-エマニュエル-マンギャンは今回の作戦をロシア帝国の新戦術、つまり、ラーヴル-ゲオルギエヴィチ-コルニーロフが行なったフィンランドにおける衝撃戦の実証試験とするつもりだった。
中でも際立っていたのは化学兵器の大規模使用だった。フランス軍の敵は社会主義化したとはいえ依然と変わらずドイツ人であった為、いざ戦争が起こればドイツの諸都市に対して躊躇なく大量の化学兵器を使用しようと考えていたからだった。そのことがわかっていたからこそケッセルリンクをはじめとする元ドイツ軍兵士たちは何も言えなかったのだった。
いくら赤く染まっていようとも祖国は祖国だから当然だったが、それでも、複雑なものがあった。しかし、だからといって手を抜こうなどとは考えていなかった。
(いつか飛行機でも飛ばしてみたいな)
空を飛ぶ爆撃機を見て、ケッセルリンクはそんな場違いな事を考えていた。攻撃開始時刻になったのはその時だった。
とはいえフェズに籠るモロッコ軍は化学兵器の対策などをしていなかった為、ケッセルリンクたちは防毒面を付けながら死体だらけの街を行軍し、時折生き残っていた敵兵を殺すだけで終わった。そして、フェズが瞬く間に陥落したという知らせはモロッコ中に広がり多くの部族がフランス保護下に収まる事になるのだった。
1922年7月20日 共同統治領パレスチナ ハイファ カルメル山
「ここまでか…」
ヨセフ-ウォルフォヴィッチ-トランペルドールはイギリス海軍の砲撃により、麓のハイファの町が燃えるの見ながらそう言った。
1880年にロシア帝国のピャチゴルスクに生まれたトランペルドールは父であるウォルフがコーカサス地方での征服戦争でロシア帝国の為に従軍していたことを評価され、ユダヤ人でありながらユダヤ人居住区外での居住を許されていた特別なユダヤ人だった。
トランペルドールも父と同じようにロシア陸軍軍人として第一次世界大戦に従軍したが、そこでドイツ軍の捕虜となったがトランペルドールの運命を変える事になる。大戦中ドイツ帝国内のユダヤ人組織を中心に将来獲得する筈の東欧の新領土の一部にユダヤ人自治州を設立するという構想があり、トランペルドールは収容所でそれを知ったのだった。
結局、この構想は戦後には反故にされたが、トランペルドールは諦めなかった。パレスチナの地に移住するためにユダヤ人の若者を募り、彼らと共にパレスチナの地に共同入植地を作っていった。ダヴィド-ベングリオンやイツハク-ベンツビといった同じ志を持つ者たちにも支えられ入植地のユダヤ人人口は増え続けていった。こうした人口増加に対応するべくドイツよりラトビア人統計学者カルリス-バロディスを招き、その手助けの下、居住地域の全体的な計画を策定し工業地域と農村地域に分けてパレスチナ全体を発展させる事とした。
また、アラブ人たちによるオスマン帝国に対する反乱がおこった際にはもともと存在していた自警団ハショメールを発展させたユダヤ人部隊を創設し、ユダヤ人のオスマン帝国に対する忠誠を示そうとした。しかし、時のカリフにして君主アブデュルハミト2世はこの動きを逆に警戒し、皮肉にもユダヤ人組織の弾圧を行ない始めるきっかけとなってしまったのだった。
その後、対オスマン帝国戦争によってオスマン帝国は滅亡したがユダヤ人の苦難は終わらなかった。新たに成立したハーシム朝アラブ帝国より、パレスチナ植民地におけるユダヤ人の自立に対して"懸念"が表明されたのだった。
入植したユダヤ人たちはユダヤ人の従業員を雇ったユダヤ人の店でユダヤ人の作った商品を買うという、自立方針を進めており、この事がパレスチナに住むアラブ人と大きな経済的摩擦を引き起こす事に繋がったのだった。この"懸念"に対し、伝統的に反ユダヤ感情の強いロシアが賛意を示し、ハーシム朝アラブ帝国大アミールとなったエジプト副王アッバース-ヒルミー2世が反イギリス的な人物であることを知っていたイギリスはこれを機に他国に接近するのではないかと警戒してその要求をのんだ。
一方、そうしたユダヤ人の自立策はユダヤ人からすればパレスチナ入植の前提の1つであり、その否定はユダヤ人組織の中でも過激派であった者たちを勢いづかせる事になった。過激派によって象徴として祭り上げられたのがトランペルドールだった。過激派は列強各国の混乱に乗じて領土拡大を目指すアルメニア共和国の支援が得られたことから武装蜂起を行ない一時はイェルサレムを含むパレスチナの大部分をその支配下におさめた。
この動きに対してフランス共和国やロシア、ハーシム朝などは直ちに鎮圧するようにイギリスに対して求めたが、イギリスの動きは鈍かった。もともと国内に親シオニズム的な人間が多かったのも理由だが、イギリスの近東支配に対して特に不利益をもたらさないだろうと考えられていたからだった。過激派の側もそれをわかっており、バハイ教徒やムスリムなどは攻撃してもキリスト教徒はなるべく攻撃の対象から外していた。
しかし、トルコにおいてムスタファ-ケマル率いる社会主義者が勝利した際、ユダヤ人社会主義者で過激派の指導者の一人でもあったアレクサンドル-ザイドがその勝利を大々的に祝った事により、トルコ人との連携により赤いオスマン帝国の再興を考えているのではとの疑念からイギリスからも警戒されるようになり、結局、社会主義トルコとハーシム朝への抑えとしてはアルメニアが適切だろうとの声が強くなったのもあり、それまで好意的だったイギリスの態度も硬化していった。
それを知った過激派内部では社会主義者と非社会主義者による内部での争いが始まったが、イギリスを中心とした列強諸国からすれば過激派の鎮圧と引き換えの大アルメニアの承認はシャルロッテ-アマーリエ会議において正式に各国によって承認された決定事項であり覆るはずも無かった。
こうしてこの日ユダヤ人過激派組織の最後の拠点だったハイファが陥落し、指導者であったトランペルドールも戦死する事になった。過激派の蜂起は終息したが、この蜂起をきっかけにパレスチナにおいては大規模ユダヤ人移民の制限が設けられることになった。
しかし、それは東欧地域での混乱やロシアでのユダヤ人の追放政策などによって増え続けるユダヤ人の難民たちにとっては移民先が一つ消滅する事を意味しており、特にそこが聖書の時代からユダヤ人にとっての"約束の地"であるとされていた事もあって一層不満を高める事にも繋がるのだった。