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第208話 映画撮影

1922年6月8日 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 サン-ルイス-オビスポ郡 サン-シメオン ユナイテッド-アーティスツ社スタジオ


「カメラを止めろ。止めるんだ」


撮影現場に監督の大声が響き渡った。


主演女優を除いて、全員が身体を強張らせる中、映画監督デヴィッド-グリフィスは主演女優と共に別室へ向かった。


「一体どういうつもりなんだ?あのシーンは作品の重要な場面なんだぞ、もう少しちゃんとした演技をだなぁ…」

「ちゃんとした演技ならしてるわ」

「あれのどこがだ?いいか、監督は私なんだ。お前なんて…」

「すぐにクビにできる?面白い冗談ね。私が今夜あの人に少し()()をするだけであなたをクビにする事も出来るのよ?そんな人がどうして私をクビに出来るというの?」


何も言い返せないグリフィスに対して、主演女優マリオン-デイヴィスはそう言った。


デイヴィスがそこまで強気なのにはわけがあった。

小さいころから女優に憧れていたデイヴィスはニューヨークのブロードウェイで女優として活躍していた時にウィリアム-ランドルフ-ハーストに見初められ、ハーストの愛人としてその寵愛を一身に受けた。


そんなデイヴィスの次なる夢は新たな大衆娯楽として台頭し始めていた。映画の世界でスターとなる事だった。デイヴィスには幸いにしてそうなるための舞台が用意されていた。それこそがグリフィス率いるユナイテッド-アーティスツ社だった。


ユナイテッド-アーティスツ社はパラマウント社に代表される映画配給会社の支配体制に嫌気のさしたグリフィスがチャールズ-チャップリン、ダグラス-フェアバンクス、メアリー-ピックフォードをはじめとした志を同じくする俳優達と共に作った新会社であり、ハーストはこの動きを自身の属する愛国党の選挙運動と映画界における影響力拡大の為に利用しようと考え、設立当初より莫大な資金援助を行なっていた。


サン-シメオンにスタジオを構えているのも、そこに元々ハーストが父親から受け継いだ土地があったからであり、ユナイテッド-アーティスツ社に対するハーストの影響力の強さがうかがえた。そのため、ハーストがユナイテッド-アーティスツ社、とくにその主要監督であるグリフィスに対して、


『わたしのマリオンを使え』


と絶えず圧力をかけたのも無理はなかった。


当初はブロードウェイで踊っていたという事で不満はありながらもグリフィスはデイヴィスを使う事にしたのだが、いざ撮影を開始するとその演技力のひどさにグリフィスは絶望したが、ハーストの愛人という事ですぐに降板をする事も出来ず、ひたすら怒りをため続けており、それがこの日遂に表に出てきてしまったのだった。


しかし、当のデイヴィスはグリフィスの抗議を受けても特に気にも留めようとしなかった。デイヴィスはグリフィスが自分に不満を持っていた事は前もって知っていたし、そうした不満が噴出して来てもハーストの力で抑え込む事が出来ると確信しての事だった。


結局その日の撮影はそこで打ち切りとなった。疲れたグリフィスは少し仮眠をとる事にした。目が覚めたグリフィスがスタッフの多くが帰ったスタジオに行くと何やら手帳を書いている一人のスタッフがいた。


「うーん、やっぱりここでカメラを引いて…」

「何をしている」

「監督…ああ、いや、これは…」


そのスタッフが落とした手帳には映画の撮影手順らしきものが綿密に書かれていた。それを見たグリフィスは詰め寄った。


「どこの社に雇われたんだ、いえ」

「違います。いや、本当に違うんですよ」


スタッフは必死に弁明しながらグリフィスに訳を話した。それによるとスタッフは自分でもいつか映画を撮る事が夢で、自分ならこうする、こうできると思ったことを日々手帳に書き留めていたのだという。


「なるほど、そうか…君の構想は粗削りだが悪くない。とくにこのカットの繋ぎ合わせなんかは特にな」

「ありがとうございます監督」

「よし、決めたぞ。明日の撮影は君の撮り方を使ってみようじゃないか、良くできたらそのまま使おう」

「…いいんですか、ハーストさんが怒りますよ」

「なに、これで少しは私の怒りもわかるだろうさ」


グリフィスはスタッフの肩を叩きながら笑った。それをスタッフの男、ロシア帝国からの移民であるセルゲイ-ミハイロヴィッチ-エイゼンシュテインはそんなグリフィスを不安そうに見ていた。


エイゼンシュテインは1898年に当時ロシア領だったリガに生まれた。父親のミハイル-オシポヴィッチ-エイゼンシュテインは正教会に改宗したユダヤ人の建築家であり、1900年のパリ万国博覧会を訪れた際に当時流行していたアール-ヌーヴォー様式に感銘を受け、リガでのアールヌーヴォー様式の普及に積極的に取り組んだロシアにおけるアール-ヌーヴォーの担い手の一人だった。


そんな家庭に生まれたエイゼンシュテインは幼い頃より芸術や建築に関心を示し、父の跡を継いで建築家になろうとしていたが、1919年初頭のニコライ2世暗殺事件によってロシア国内での反ユダヤ的風潮が高まると改宗ユダヤ人であっても危険だと考えた父ミハイルは息子とともにすぐにアメリカへと出国した。


愛国党政権下で反移民的な風潮が高まっていた為、入国には時間を擁したが、ミハイルが社会的な成功者であったこともあり何とかカリフォルニアに移り住む事に成功したエイゼンシュテインはそこでハリウッドをはじめとするヨーロッパとは違う大規模な映画文化の洗礼を受けた。そして、1920年にミハイルが亡くなると、エイゼンシュテインは映画業界に足を踏み入れる事にしたのだった。


結果としてエイゼンシュテインが考え、グリフィスが採用したカットの繋ぎ合わせによって、演者の顔を直接写さずに表現するという新技法は映画評論家や観客から絶賛され、後の映像作品で多くのパロディがなされるほどだったが、主演女優であるデイヴィスの出番が予定よりも少ないとハーストは激怒し、グリフィスとの間で激しく対立する事になった。


最終的にはユナイテッド-アーテスツ所属の俳優たちのとりなしによってデイヴィスをグリフィス監督作品以外への出演を多くする、という形で決着がつき、その後、チャップリンの喜劇映画においてヒロイン役として出演した事を切っ掛けにコメディー女優として人気を得る事に繋がったが、派手な衣装やセットによる大掛かりな映画を好むハーストには受け入れられず、ハーストとデイヴィスの関係は次第に冷めていくことになる。


また、当時のアメリカの反移民的な風潮もあり、新技法の発明者はグリフィスであると喧伝されたが、その事にエイゼンシュテインは次第に不満を募らせるようになり、他国に活躍の場を求めるようになるのだがそれはまた別の話である。

そんなわけで、評価ポイント1400pt突破記念作品です。なんとか間に合ってよかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 映画の話は楽しいですね。 「イントレランス」は1世紀を経ても企画の壮大さに感動してしまいます。 出たー、エイゼンシュタイン。 「アンタッチャブル」のシカゴ駅の階段のシーン、 ベビーカーがゆ…
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