第2話 長崎事件と明治二十年の改革
1886年8月16日 東京
「全く困ったことになった」
「取りあえず清国には既に抗議を申し入れたが、国内の方はどうなるか」
「定遠、鎮遠か…厄介な艦だよ」
「こんなことならばフランスからの同盟提案をうけていればよかったな」
2日前の長崎における大清帝国北洋水師所属の水兵と地元の警察官などとの衝突について政府では頭を悩ませていた。後にいう所の長崎事件である。
中には清仏戦争時にフランスから提案された同盟を受け入れていればと後悔するものもいたが、断ってしまったものはしょうがなかった。
「今後の道は二つある。清国に対抗するため軍備拡張をするか、それとも軍備を相応のものに抑えつつ国力の涵養を図るかだ」
「東京鎮台の三浦中将は陸軍による機動防御と沿岸防衛を重視した海軍軍備建設を主張していると聞くが」
「井上外相。それでは国内が戦場になる。それだけは絶対に避けねばならない」
「大山陸相の言う通り、ここは多少国力を削ってでも清国艦隊に対抗できるだけの海軍兵備を整えなければならない」
「いや、三浦中将の意見は尤もです。まずは国力の涵養、これがなければ精強な軍の建設などあり得ない。」
伊藤博文内閣総理大臣の言葉に対し井上馨外務大臣が意見を述べると大山巌陸軍大臣と西郷従道海軍大臣がそろって反対したが、そこに谷干城農商務大臣が先の井上の言葉に対して賛同した。
「…谷農商務相がそう言われるのは三浦中将と親しいからではないか」
「国家の命運を左右する時に私情は挟まない。大山陸相こそ三浦中将に対して何か、思う所があっての反対ではないか」
「思う所があってとはどういうことか」
かつて陸軍内部で藩閥勢力に対して反対する姿勢を見せ、藩閥排除のための天皇親政を求める運動を行っていた事もある谷と三浦を中心とする四将軍派は大山らの策もあり陸軍を追われていた。
常々経済的軍備論を唱えていた谷からすれば大山は過去の因縁から不当に三浦案を否定しているように見え、大山からすればこれを契機に四将軍派の復権を目論んでいるように見えていた。
2人の溝は過去の因縁を通して全く違う見方をしているがゆえに埋まりようがなかった。
結局、大山や西郷らの反対もむなしく政府の大勢は国力相応の経済的軍備論に落ち着いた。帝国陸海軍では多少の修正を加えつつもこれをもとに翌年から明治20年の改革と呼ばれる改革を開始した。
陸軍では全体の陸軍兵力削減と引き換えに工兵、砲兵、輜重兵の従来からの拡充による即応性の強化を目指す事となった。また海軍では士官教育が拡充された。そしてこの改革で最大のものとされるのが統合参謀本部の設立だった。