第191話 首長の策謀
1921年1月5日 イギリス保護国 アフガニスタン首長国 カーブル
アフガニスタンは2度にわたる戦争の末にイギリスの保護国となったが、独立を求める声は依然として強かった。そんな中でアフガニスタンを治める首長アマーヌッラー-ハーンは腹心のムハンマド-ナーディル-シャ―と共にとある計画を実行に移していた。
「首長やはり、流石に"あの者たち"に対する援助は打ち切った方が良いと思います。このままではロシアの、いや、イギリスを含めたすべての国の怒りを買うでしょう、いいえそれだけではなく国内の者でさえもその真意を理解する事無く御身を害そうとするでしょう、であれば…」
「ナーディル-シャ―、だからやめろというのか、だが、ここでやめてしまえばすべてが終わってしまう。このまま、ロシア人とイギリス人が手を結んでみろ、我が国に残るのは永久にイギリス人の下で生きる道だ。ならば、自らで火種を作り火事を起こす、そうする事でイギリス人は再びこの地に注目するだろう、ナーディル-シャー、お前にはその違いが分かるか?」
「いえ…」
「どちらもイギリスの支配下に違いない。というのであれば全くその通りだ。だが、敢えて違う所をあげるとすれば前者はただの飼い殺しだが、後者ならば莫大な援助を受ける事が出来る。何しろインド軍は自らの失策のせいでインド各地に展開しなければならなくなったからな、そんな時にカイバル峠を超えて兵を送れるとは思えん」
アマーヌッラー-ハーンが進めていた計画とはフョードル-アドリアノヴィチ-フンチコフをはじめとした社会革命党中央アジア支部によって指導されたクラスノボツクからタシュケントに至るカスピ海横断鉄道、その建設労働者の蜂起の支援だった。
元々、社会革命党中央アジア支部では極東での蜂起が始まった時から蜂起の計画はあったが、トルキスタン総督府の厳しい監視によって未然に防がれていた。しかし、元々の厳しい建設現場に加えて、メキシコ風邪の上陸によって鉄道建設労働者たちの不満は頂点に達し散発的な蜂起が起きていた。アマーヌッラー-ハーンはそうして蜂起した者たちへの援助をしようと考えていたのだった。勿論、労働者たちへの同情というものは一切なく、純粋に中央アジア地域が不安定化する事によって英領インドと中央アジアの間にあるアフガニスタンに対する注目度が上がると考えての事であり、そうする事で得られるはずのイギリスからの資金を利用して近代化を達成しようと考えていたのだった。実際の所は新たな皇帝アレクセイ2世の周囲には反英的な人間が多かったため、その関係はゆっくりと冷却化していたのだが、アマーヌッラー-ハーン達はそこまではつかんでいなかった。
「しかし…多くの族長たちが、いえ、ただの民草でさえもイギリスからの独立を待ち望んでいるのです」
「それはわかる、だが実際、我が民を救っているのはイギリス人が懐柔の為に申し訳程度に送っている医薬品ではないか、メキシコ風邪とやらに対する効き目は薄いが、それでも多くの病気を治癒できている。それがなくなれば我が国はどうなる?…ナーディル-シャ―今は耐えよ。そして迅速に事を成すのだ。イギリスが動けないうちに、イギリスが我々が何もできないとみくびっているうちに、この国を独立してもなお存続できるようにしなければならない」
「…御意」
アマーヌッラー-ハーンの言葉に対し、ナーディル-シャーは少し間をおいて賛同の意を口にした。
結果として、アマーヌッラー-ハーンの計画通り、社会革命党中央アジア支部の蜂起は成功した。
これは、アマーヌッラー-ハーンの他にも同じことを考えていた人間がいたからだった。それはロシア帝国の保護国、ブハラ首長国の首長サイイド-エミール-ムハンマド-アーリム-ハーンだった。アーリム-ハーンは当初こそ清廉潔白な支配者として振る舞っていたが、今やその統治は腐敗し、ロシア帝国の後ろ盾無しでは成り立たなくなっていた。そのため、ロシア帝国が引き続き中央アジアに介入し続ける事を望んだのだった。
とにかく、こうしてロシア帝国は中央アジア方面においても社会主義者との戦いを始める事になり、イギリスは英領インド帝国にほど近い地域での第2の社会主義革命の勃発に関して警戒心を強めていった。そしてアーリム-ハーンの望み通りロシア軍は社会主義者として密告されたアーリム-ハーンに反抗する知識人たちを次々と逮捕または処刑し、アフガニスタンにはアマーヌッラー-ハーンの望み通りアフガニスタンの安定化の為に少なくない額の資金が注ぎ込まれる事になった。また、アマーヌッラー-ハーンもまたイギリスの支援の下に自身の近代化方針に反対する者たちに対する弾圧を行なった。
アフガニスタンとブハラ2つの首長国は宗主国と首長の目指す方向性こそ違っていたが、改革のための基盤作りと現状維持というそれぞれの目的を達成する事が出来た。
だが、ラッチェンスデリー(ニューデリー)の英領インド帝国政府もタシュケントのトルキスタン総督府も、そして勿論ロンドンやペトログラードも自分たちが駒にされた側だとは考えしなかった。そのようなことは全く想像すらもしていなかったからだった。
最近欧米ばっかりしか書いてなかったので欧米以外も書きたい欲が抑えきれずに書いてしまいました。次回はまたドイツ革命に戻ると思います。
日本とかに関してはいずれ纏めてやる…予定です。




