第181話 "英雄"と軋轢
1920年5月1日 ドイツ帝国 ヴュルテンベルク王国 フリードリヒスハーフェン ツェッペリン社本社工場
「急げ、軍が来るぞ」
「バリケードづくりに資材を回せ」
「それより銃だ、いや、この際武器になりそうなものはなんでも集めろ」
硬式飛行船の生みの親であるフェルディナント-フォン-ツェッペリン伯爵が建設したツェッペリン社の本社工場では労働者たちが駆け回っていた。
その労働者たちには共通点があり、みな腕に赤い布を巻いていたという事だった。彼らは社会主義者に扇動されて蜂起した者たちだった。
「同志パラベルム、この後ですが…」
「取りあえずは籠城するしかあるまい。他の同志たちも工作を進めていた筈だからな」
(つまり、作戦としてはひたすら耐え持つしかないのだな…クソ、なんてことだ。こんなもの作戦とすら呼べない。いっそ、投降しようか…)
未だ切断されていない電話に向かって、あったこともない同志に向かって指示を仰ぐ男は、受話器を置いた後途方もない疲労感に襲われた。
(ああ、クソ、なんてことだ。父さんの言う通り軍人になればこんな思いはせずに済んだのだろうか)
ツェッペリン本社工場の現場指揮を任されている若干29歳の航空技師エルヴィン-ヨハネス-オイゲン-ロンメルは後悔した。
ロンメルは1891年11月15日にヴュルテンベルク王国ハイデンハイムに生まれた。
幼少期は病気がちの少年だったが、10代になると当時、関心が集まり始めた航空機に夢中になり、それを仕事にしようと強く志す事になった。
父親は当初反対し、ロンメルを軍人にしたがったが、その当時はちょうど第一次世界大戦の惨禍がドイツ各地で語られ始めたころでもあり、ロンメルの身を案じた母や姉が反対し、ロンメル本人の希望もあり、航空技術者となってツェッペリン社に就職した。それ以来未だに父とはぎくしゃくしていたが、その事を除けば概ね幸せだった。
そんな彼が何故、工場で籠城戦を指揮しているかといえば、少し前に起きたストライキが原因だった。工場で起きたストライキに際してロンメルは自らストライキを起こした労働者たちとの交渉役となろうとした事があった。技術者として机上の空論ではなく現場を見た上で職務に当たるべしという持論から労働者たちとの間に少なからず交流があったためだが、ここで事態は思わぬ展開を見せた。
ストライキを行なっていた側は交渉役としてではなく、ロンメルを仲間の一人として出迎えたのだった。日ごろから距離が近かったためにそのような誤解が生じたのだが、これを見たツェッペリン社側は当然激怒し、警察を呼んで鎮圧にかかり、労働者たちは必死の抵抗の末にそれを撃退した。
こうして、自身が何をしたわけでもないのに労働者たちに指導者として祭り上げられてしまったロンメルは労働者たちの指揮をとる事になってしまった。
そして、この日、ロンメルが工場での籠城戦を戦っている間にフリードリヒスハーフェンでは、スパルタクス団団員でヴュルテンベルク王国での社会主義活動の全てを指揮する立場にあったカール-パラベルム、本名カロル-ゾベルゾーンの命令により、一斉蜂起が行なわれた。この蜂起はバーデン大公国コンスタンツ、バイエルン王国リンダウなどの近隣諸都市も含んだ大規模なものであり、特にドイツ帝国を構成する主要国家であるバーデンやバイエルンを含んでいた事は、社会主義勢力が地下に潜っている間にドイツ各地に根を張っていた事を示していた。
この5月1日蜂起により、社会主義勢力は地下からドイツ帝国打倒を叫ぶだけの組織ではなく、現実にそれを転覆させるだけの力を持った存在であると認識されるようになったが、パラベルムの越権行為を責める声もスパルタクス団内部では強かったため、蜂起を指揮したパラベルムではなく、その発端となったフリードリヒスハーフェンの工場の籠城戦を指揮したロンメルが社会主義者の間で"英雄"として語られる事になる。
1920年5月16日 ドイツ帝国 ヘッセン大公国 ダルムシュタット 第一戦闘航空団 司令部
「諸君、出撃命令だ。目標はコンスタンツを占拠した労働者たちだ。これを爆撃し速やかに秩序を回復する」
航空団指揮官のオスヴァルト-ベルケ少佐は反論を許さぬ断固とした口調で言ったが、部下である操縦士たちの戸惑いは大きかった。
「少佐、お待ちください。まずはビラや鎮圧用のガス弾を使い自主的な投降を促してはどうでしょうか、連中など所詮は…」
「ゲーリング君…これは命令なのだよ。バーデン大公国よりの要請に基づいて参謀本部が決断を下したのだ。ならば我々はそれにしたがうべきだ。それこそが軍人としての務めではないのかね?…それとも、なにか撃ちたくない事情でもあるのかね?…もしや、君の父上に関する"噂"が事実だったのかね?」
「…少佐、私はただ…」
「もういい、営倉に連れていけ」
対オスマン帝国戦争においてユンカースJ1を愛機として対地攻撃王の異名をとるほどの戦果を挙げたヘルマン-ゲーリング中尉が反論したがベルケはそれをゲーリングの父親の話をする事で封じようとしたが、それでも、なおゲーリングは言葉をつづけ、結果、営倉へと連れられて行った。
ゲーリングの父親であるハインリヒ-エルンスト-ゲーリングはドイツ帝国領南西アフリカの帝国弁務官時代に現地人を対等の人間として扱おうとしたため、社会主義者扱いされ、結果として早期の退官を余儀なくされたという事があったためゲーリングの事を社会主義者の息子として見る者もいた。そのため、社会主義者の蜂起後はゲーリングの立場は微妙なものとなっており、ベルケも社会主義者の蜂起後は密かに疑いの目を向けていた。
一方のゲーリングはといえば、社会主義者への同情というよりは単純に武力のみ頼った鎮圧は相手の敵意を強めるだけであり、混乱の長期化を招くと考えていたからこそ反対したのだが、ゲーリングとベルケの軋轢は今回の出来事で決定的なものとなったのだった。




