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第178話 ドミノの家

1920年1月9日 フランス共和国 パリ 第8区 モース自動車 本社

ヨーロッパやアメリカなど各地で広く販売され、自動車レースではパナールと競い合った自動車会社だったモースだが、ここ数年は低迷が続き、新たな事業を開始する必要に迫られていた。


「シトロエン君、本当にこの家を建てて売れるのかね」

「ええ、"彼"は私の思った通り完璧な仕事をしてくれましたからね。ならば次は我々がしっかりと動くべき時では?」

「だが…これじゃあ、まるで、積み木の家じゃないか」

「"彼"に言わせればドミノの家(メゾン-ドム-イノ)だそうで」

「しかし、もうちょっと飾り気があっても良かったんじゃないか?ほら、君がアメリカで見てきた建物は…」

「…社長、確かに私はあの国に敬意を払っています。しかし、だからこそあの国の建築家があのように不完全な建築を作っているのが許せないのです。建築家がやらないのであれば我々のような技術者がやらねばならないのです」

「技術者がやるって…それはアメリカ人の技術者の仕事であって、我々ヨーロッパの技術者の仕事では…いやもう、何も言わんよ。一度好きにやれと言ったんだ、好きにやりたまえ」

「ありがとうございます。社長」


モース自動車社長のエミール-モースはモース自動車を立て直した立役者であるアンドレ-シトロエンに向かって、仕方がないといった様子で許可を出したが、シトロエンに向かって話すモースはどこか嬉しそうだった。

モースもシトロエンと同じく技術者でありこれまでにない新しい物が見たいという欲求は隠しきれなかったからだった。


シトロエンは1878年のパリに生まれたが、6歳の時に父親が南アフリカのダイヤモンド鉱山への投資に失敗して自殺し、それからは極貧生活を送りながら、何とか進学し、ジュール-ヴェルヌの空想科学小説やまだ建設途中だったエッフェル塔を見て技術者という職業を志すようになった。


そんなシトロエンに転機が訪れたの第一次世界大戦だった。

シトロエンは1900年にギリギリの成績でエコール-ポリテクニークを卒業した後はル-マンの第31砲兵連隊に所属していた経歴があり第1次世界大戦勃発後には当然、再配属されるものだと考えていたのだが、第1次世界大戦で各国を襲った砲弾不足がその運命を変える事になった。


砲弾不足が明らかになった後、フランス陸軍は兵器会社やそれらの会社と共に兵器生産に参入する事にした異業種の会社に対し生産を監督する人員を配置し始める事にした。当然、それらの生産監督は技術者であることが望ましいとされたが、エコール-ポリテクニークを優秀な成績で卒業したものを前線から引き抜いて配置するのは砲兵をはじめとするフランス軍全体から反発があり、結果的に成績で劣る者から順に配置されていった事から、シトロエンは生産監督をする事になった。


その結果シトロエンは大戦中はフランス各地を駆け回る羽目になり、そこで、自国の産業界の非効率さを嫌というほど味合わされた。

一方で良い出会いもあった、主力商品の自動車生産を止めて砲弾生産を行なっていたモース自動車から、戦後も生産監督として残ってくれないか、と言われたのだった。


シトロエンは戦後もモース自動車に残る事を決め、一方で当時の最新の試みであったフォーディズムを学ぶため最初のアメリカ旅行に出かけた。フォーディズムの導入によってモース自動車はフランス一の自動車会社となる…ことはなかった。

基本的にモース自動車はルイ-モースとエミール-モースという技術者兄弟が設立した会社であり、高性能な車を作る事は出来ても、経営という面では他社に後れを取っていた。


特に新技術の積極的な導入を押し進めていたルイはことあるごとにコストカットをしようとするシトロエンと対立し、エミールの仲裁でほとぼりが冷めるまでシトロエンは1917年に再びのアメリカ旅行をする事になった。


2度目のアメリカ旅行で、シトロエンは新たな衝撃を受けた。

1度目の旅行で衝撃を受けたのはフォーディズムに始まるアメリカの生産管理についてだったが、2度目の旅行で衝撃を受けたのはホワイト-モーター-カンパニーがフランク-ロイド-ライトに依頼して作らせた郊外都市計画だった。


都市の郊外地域に自動車会社が自動車交通を中心とした都市を作り上げ、販売するという新しい試みはシトロエンにとってモース自動車の目指すべき新しい姿だった。

この頃モース自動車の存在するパリの郊外はスラム化が進んでおり、そうしたスラムを"清潔なもの"に置き換えるという名目を使えば行政からの支援もあてにできるとシトロエンは考えた。


さらに、シトロエンは新たなアメリカの建築にも感銘を受けた。

それはアメリカが大戦景気に沸いていた1908年にアントニ-ガウディの手によって設計され、建設途中で不況に襲われて建設中断されたままだったニューヨークのホテル-アトラクションなどのコンクリートを使った建築だった。


逆に同じく建設途中で工事が中断された建築でも古典的な建築だったニューヨークのアメリカ国立インディアン博物館などはシトロエンにとっては旧態依然としたものに見えた。


フランスに帰国したシトロエンは対立していたルイがアメリカ旅行中に病死していたこともあり、早速、計画を実現しようと動き出した。


当初はコンクリートを大々的に採用した初めての建築家であるオーギュスト-ペレに依頼しようとしていたが、多忙なため断られてしまった。代わって紹介されたのがペレの弟子シャルル-エドゥアール-ジャヌレ-グリ、建築家としてはル-コルビュジェと名乗っている男だった。


最初は懐疑的だったシトロエンもル-コルビュジェの提示した無駄なものを一切廃した住宅建築であるドミノの家(メゾン-ドム-イノ)に衝撃を受け、モース自動車の郊外都市計画にこのドミノの家(メゾン-ドム-イノ)を採用する事にしたのだった。


このドミノの家(メゾン-ドム-イノ)はモース自動車の郊外都市だけでなく、フランス植民地などでも大々的に採用される事になる。

ライトに続いてル-コルビュジェも出したし、あとはファン-デル-ローエを出せば近代建築3巨匠コンプリートかな

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