第148話 完成記念式典
1918年4月8日 アメリカ合衆国 ワシントンDC 旧ボルティモア-ポトマック鉄道駅跡
「…今日という日は全てのアメリカ国民にとって、永遠に忘れられない日となるだろう。偉大なる初代大統領ジョージ-ワシントンを記念した建造物が完成したことは、メキシコ風邪という苦難にも負けない、アメリカの団結の象徴となるだろう。我々アメリカ人が自らの過去を振り返り、アメリカの独立と自由、そして民主主義の意味ついて学び、考え、そしてそれを未来へと受け継いでいく、ここはそのための場所なのだ。多くの人々がここを訪れ、そしてどうかその事について考えてくれることを切に願う」
演説を終えた大統領セオドア-ルーズベルトはにこやかに笑った。ルーズベルトはこの日、旧ボルティモア-ポトマック鉄道駅跡に建てられたジョージ-ワシントン-メモリアルの完成記念式典に出席していた。
なぜ、ジョージ-ワシントン-メモリアルが建てられたのかといえばアメリカ政治の混乱を抜きにして語る事は出来ない。
ワシントンは大統領としては贅沢を好まなかった為、その死後も長らくワシントンを記念する建造物が立つことはなかった。しかし、ワシントンの没後100年を目前に控えた1897年4月8日にジョージ-ワシントン-メモリアルを作る事を目指す団体が組織され、この運動はアメリカ各地で大きな支持を得た。
そして、廃止されたボルティモア-ポトマック鉄道駅の跡地を鉄道会社から譲り受けた。この場所にメモリアルを立てると決めたのだった。第20代大統領であるジェームズ-ガーフィールドが暗殺された場所であり、初代大統領を記念する施設を立てるには少々不吉な場所でもあったが、取りあえず駅や操車場の跡地を含む広大な土地を手に入れた団体は懇意の議員を通じて議会でジョージ-ワシントン-メモリアルの建設する決議を承認させた。これが1912年の事だったのだが、メモリアルはそれからいくらたっても建設される気配が無かった。
これは、同時期にもう一つの巨大プロジェクトが開始されていたからだった。
リンカーン-メモリアル。暗殺された第16代大統領エイブラハム-リンカーンを記念して計画された建造物であり、こちらは既に1911年に当時のタフト政権によって承認されており、まずはこちらの建設が急がれる事になっていた。
しかし、1913年3月4日にリンカーンの息子であるロバート-トッド-リンカーンが大統領に就任すると、このリンカーン-メモリアルの建設は中断された。第一次世界大戦の戦後不況のさなかにこのような建物を立てている余裕はないというのが、公式の理由だったが実際はもっと政治的なものだった。
そもそも、それまで、頑なに大統領への立候補を拒否し続けていたリンカーンが大統領となったのは準備なき分裂によって民主党に利する事を避ける為だったのだが、結果として南北戦争の際に敵対した南部地域の反発を招いていた。そのうえですでに決議がなされたこととはいえ、父を記念するメモリアルを建設する事はそうした南部地域をさらに刺激する事に繋がる、とリンカーンは考えたからだった。
そして、ルーズベルト率いる愛国党政権の誕生後に、リンカーン-メモリアルの建設計画は白紙に戻り、建設予定だった干拓地にはナショナル-ギャラリーが建てられることになり、リンカーン-メモリアルのために集められた資材は全てジョージ-ワシントン-メモリアルの建設に使われる事になった。
これは、ティルマン副大統領率いる愛国党南部閥に対するルーズベルトの配慮だったが、同時に自身が属する北部閥を納得させるためにエイブラハム-リンカーンが暗殺されたフォード劇場をリンカーン記念館に、彼が息を引き取ったピーターセンハウスをリンカーン博物館とする事を決定した。
リンカーン-メモリアルに代わり建設が計画されているナショナル-ギャラリーは実業家だったフランクリン-ウェブスター-スミスの提案に基づき、鉄筋コンクリートで造られ、入り口から順に古代エジプト、バビロニア、古代ギリシア、ローマ、中世ヨーロッパ建築などが再現された壮大な建物であり、歩くだけで西洋建築史の流れが視覚的にわかるというものだった。
スミスはこのナショナルギャラリーの建設を1890年に提案していたのだが、残念ながら承認される事は無く、1911年に失意のうちにこの世を去っていた。
だが、ルーズベルト政権はリンカーン-メモリアル建設中止によって出来てしまった空白を埋めるべく忘れ去られていたスミスの提案をよみがえらせたのだった。こうして、空白を埋める為、というにはあまりにも巨大にして壮麗な建物群が建設される事になった。
しかし、現在はその壮麗な建物群の建設も止まっていた。メキシコ風邪の感染拡大により、そうした公共施設の建設にまで手が回らなかったからだった。
そんな状況にもかかわらず、ジョージ-ワシントン-メモリアルの建設だけは続行された。それどころか以前よりも早い速度で作業が進められた。
他の建造物と同じようにジョージ-ワシントン-メモリアルも建設の中断が検討されたのだが、ルーズベルトは認めようとしなかった。ルーズベルトはメキシコ風邪の感染拡大によりアメリカが混乱している時だからこそ一刻も早く、ジョージ-ワシントン-メモリアルを完成させる事によって、目に見える形でアメリカの団結を示そうと考えたのだった。
そうした決意は皮肉にも甥であるフランクリン-デラノ-ルーズベルト、ニューヨーク州議会上院議員がルーズベルトの盟友であるウィリアム-ランドルフ-ハーストニューヨーク州知事を引き摺り下ろすために、ルーズベルト政権が進めてきたメキシコ風邪対策に真っ向から対立する組織である反マスク連盟を立ち上げた事を受け、更に強くなった。
ルーズベルトの考えた通り、ジョージ-ワシントン-メモリアルはアメリカ国民の団結の象徴として広く愛される事になる。




