第136話 エルズルムの休息
1917年12月5日 オスマン帝国 エルズルム州 エルズルム県 エルズルム
欧州各国の連合軍の主力を担っているロシア帝国陸軍が、すでに廃墟の方が無事な建造物より多い有様になっていたエルズルムで休息をとっていた。アルメニア人が数多く居住していたエルズルムでは、大規模なアルメニア人虐殺が行なわれた結果として、それらの無事な住居でさえアルメニア人の姿は無かった。
「酷いな」
アルメニア人たちを前にそう口にしたロシア帝国陸軍少尉ミハイル-ニコラエヴィチ-トゥハチェフスキーに対して、上官であるカール-グスタフ-エミール-マンネルハイム大佐は『前の大戦ではこのような事は日常茶飯事だったよ』と返した。
「ドイツ軍に追われて撤退する時の事だ。ポーランド人に占拠された村を奪還した事があったが、そこにいたはずのロシア人の姿は一人も無かったことがあってな…」
「…そういえば、大佐は先の大戦に従軍されていたのでしたな」
「ああ、開戦からずっと帝国のために働いて、最後はミシチェンコ大将の指揮でオデッサの解囲作戦にあたっていたよ。作戦は失敗したが、これをもらえた」
マンネルハイムは佩用していた四級聖ゲオルグ十字章を誇らしげに見せた。
若いころに素行不良でフィンランド大公国軍を追われて以降、マンネルハイムはフィンランド軍ではなくロシア帝国陸軍での栄達を望むようになっていた。それは、貧しい家族を楽にしたいという思いも強かったが、それ以上にウクライナ人のような非ロシア人系の将官も数多くいたロシア陸軍においてならば、自身の才能を存分に発揮できるのではないか、と期待してのものだった。
幸いにしてマンネルハイムには騎兵将校としての素質があり、第一次世界大戦では騎兵将校としてドイツ帝国軍やオーストリア-ハンガリー帝国軍と戦い、事実上の敗戦後も軍に残る事ができていた。
マンネルハイムは現在ロシア陸軍初の戦車部隊である第一戦車大隊を率いていた。
装備車両は航空技術者のアレクサンドル-アレクサンドロヴィッチ-ポロホフシチコフが開発したロシア初の国産戦車ヴェズジェホートに改良を加えたヴェズジェホート2だった。
改良と言ってもほぼ別物であり、ヴェズジェホートの特徴だった中央部のゴム製履帯と左右につけられた車輪という特異な構成は改められ、諸外国の戦車と同じように左右に鋼製履帯が付けられたものになり車輪については後部に補助輪としてつけられた。
また、武装に関しても最大7.62mm機関銃が2丁程度だった従来の物から、M1915 37㎜19口径砲、所謂、塹壕砲を搭載したものに改められ、エンジンもわずか10馬力だったものが45馬力になった。更に、派生型として、M1902 76mm野砲を搭載した自走砲や弾薬運搬車などが作られた。
この改良に関しては、イギリスのフォスターズ-オブ-リンカーン社とその社長であるウィリアム-アッシュビー-トリットンの協力が大きかった。
当時、各国の陸軍がそうであったように、イギリス陸軍もまた戦車という第一次世界大戦においてフランス軍が投入しドイツ軍に大きな衝撃を与えた新兵器に興味を持っていた。そこで急きょフランスから戦車を輸入して、イギリスでも類似した車両を作ろうと考えていたのだが、当時のイギリスでは、ロイヤルネイビー自身が引き起こしたドレッドノートショックとそれから2年後に起きた第2次ヘルゴラント海戦によって軒並み既存の艦艇が旧式化した事から、ロイヤルネイビーこそイギリスを守る最強の盾であるとするイギリスとしては海軍中心の予算編成が続き、さらにそもそも陸軍としても第2次ボーア戦争の戦訓の取り入れが済んだ直後に勃発した第一次世界大戦によって、訓練から軍服、小銃、大砲と大幅な見直しを迫られたため、戦車の導入は後回しにされた。
そうして結局、イギリス陸軍が本格的に戦車の開発を開始したのは1914年になってからだった。
この開発においてはトリットンのフォスターズ-オブ-リンカーン社も名乗りを上げた。砲牽引車などの開発の実績があったフォスターズ-オブ-リンカーン社だったが、当時のイギリスで唯一無限軌道を開発、製造していた実績のあるペドレール-トランスポート社に敗れた。
一方、1914年12月25日のペトログラードでのパレードでお披露目されたロシア帝国初の戦車であるヴェズジェホートだったが、実際に試験してみると問題ばかりだった。
4トンと重量が非常に軽かったことから、速度こそ時速27㎞と当時としては高速だったが、中央に履帯、左右に車輪という独特のレイアウトから非常に操縦が難しかった。
また、機関銃だけでは火力的に心もとないとされ、最低でも37㎜砲の装備が求められた。さらに、中央の履帯がゴム製であったことから、戦略資源であるゴムではなく、木製または鋼製の履帯が望ましいとされた。さらに、搭乗員も2名から、3~4名に乗員を増やす事が求められていた。
こうした改善要求に対しロシア陸軍としては頭を抱えていた時に現れたのがフォスターズ-オブ-リンカーン社だった。
実はロシア陸軍としてはヴェズジェホートの開発と並行して砲兵の機械化を目指していて、そのためにフォスターズ-オブ-リンカーン社から砲牽引車を導入しようとしていたのだが、ヴェズジェホートの開発が上手くいっていない事を察知したフォスターズ-オブ-リンカーン社はイギリスでの経験を活かした改良案をロシア陸軍に提示した。
当時はストルイピン政権による親イギリス外交が行なわれていた時期でもあり、ロシア陸軍はフォスターズ-オブ-リンカーン社による改良案を採用した。こうして開発されたヴェズジェホート2は1916年に完成し、すぐさま量産された。
のちにフォスターズ-オブ-リンカーン社はこのヴェズジェホートの改良の経験を活かして、イギリス陸軍での高速戦車の開発計画に携わる事になるのだが、それはまだ先の話だった。




