第12話 モロッコ危機
1905年5月10日 フランス共和国 パリ
その日、フランス共和国外務大臣テオフィル-デルカッセはフランス共和国首相モーリス-ルーヴィエをはじめとする内閣の面々と夜遅くまで議論を続けていた。議題は1905年3月31日のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のモロッコ、タンジェへの訪問に端を発するヨーロッパでの国際的危機、モロッコ危機に関してだった。
このモロッコ危機の中で外相のデルカッセが開戦論に傾いていたのに対し、首相のルーヴィエは会議にて戦争を避ける方針であった。
「デルカッセ、君は開戦を主張しているが勝算はあるのかね。ここは会議を開いて外交的にドイツの孤立化を優先するべきだ。イギリスもロシアも皆発展著しいドイツを警戒して今や我々の側だ。交渉となれば我々が有利だ。交渉で忌々しいドイツ人どもを引きさがらせる事ができるのだからいいじゃないか」
「だからこその開戦なのです首相閣下。現在ではイギリスもロシアも、そしてわがフランスもドイツに対して優位を保っています。しかしながら10年後、20年後となればどこまで優位を保っていられるわかりません。いや、彼らがこのヨーロッパを支配する事すらあり得るのです。だからこそ今戦うべきなのです」
ルーヴィエが発展著しいドイツを警戒するイギリスやロシアと共に外交的なドイツ封じ込めを模索しているのに対し、デルカッセはそのドイツに対し予防戦争を仕掛けようとしていた。ドイツへの警戒心は同じでもアプローチは正反対だった。そして両者には共通して懸念している事があった。
「しかしだなデルカッセ、わが軍がドイツ軍に勝てるのかね。決定をした私が言える事ではないが既にフランス軍の士気は不祥事による国民からの信用低下に加えて、わが内閣の決定した兵役期間の短縮によって衰えている。戦争が兵器だけでは戦えないものである以上、開戦をしたところで勝てる見込みは無い」
ルーヴィエは悲観的に言い切ったが、全て事実だった。
フランス軍は独仏戦争での敗戦に加え、ドイツへの復讐と第3共和政打倒を掲げたジョルジュ-ブーランジェによるクーデター未遂事件、フランス世論を二分する事になったユダヤ系であったアルフレド-ドレフュス大尉への冤罪事件など多くの不祥事で国民からの信用が低下していた。
さらにルーヴィエの行なった兵役期間短縮は名目上は3年から2年、実際にはわずか10カ月しか兵役につかなくてもよい、という大幅な短縮だった。
これでは確かに勝てる見込みはない。フランス軍の現実をルーヴィエはデルカッセに突き付けたのだった
「首相、我々にはまだ同盟国がいます。既にロシアのラムスドルフ外相からはいざという時のフランス支援の確約を得ています。また、イギリスも我々に対し好意的です。イタリアに関しても恐らく中立の姿勢を取るでしょう」
デルカッセはルーヴィエの言葉に対しドイツとオーストリア以外には敵がいないこと、そして欧州最大の陸軍と世界第3位の海軍を持つロシアが共に参戦する事を告げた。
この言葉にはルーヴィエでさえも強硬論に傾かざるを得なかった。ロシアの参戦はそれほどまでに魅力的だったのである。
結局、会議ではデルカッセの主張した即時開戦は退けられたが、ドイツに対しては軍事力を背景とした強硬策を取る事となった。