第11話 新有坂砲
1903年 フランス共和国 ロワール県 サン=シャモン
大日本帝国陸軍少将有坂成章は、その銃器設計者としての優秀さによって知られた人材であった。
日本初の国産制式小銃である村田銃の開発者村田経芳が最後に作った小銃である、村田式連発銃が失敗に終わったのち30年式歩兵銃を設計したのも彼だった。
また、有坂には砲設計者としての才能もあり、31年式速射野砲を設計したのも有坂だったが、同時に彼は優れた技術者であるがゆえに列強諸国の技術進歩の速さを実感していた。近年、特に有坂が着目していたのが駐退復座機を装備する新時代の火砲だった。
その分野でトップを走っていたのがフランスだった。後に速射砲の代名詞ともなるM1897 75mm野砲は当時世界最高峰といえる性能であったが、フランスはその機密が流出する事を恐れ、日本からの購入提案に応じようとはしなかった。続いて実用化に成功したのはドイツだったが、こちらは商談が成立する前に仮想敵である清国が購入を決定した為、話が流れてしまっていた、その他にはロシアとイギリスがあったが、ロシアも清国と同じく日本の仮想敵であり、イギリスは第2次ボーア戦争の戦訓に基づく装備刷新の途中であった事から余裕が無く、結局、日本陸軍は未だ駐退復座機を持つ火砲を装備できていなかった。
その為、止む無く有坂は各国火砲を参考にしつつ自国での国産開発を決断、自ら見聞を広めるべく渡仏、フランス、ロワール県サン=シャモンにあるFAMH(鉄工、海軍、鉄道のオー-フルノー社)、通称サン-シャモン社を訪れていた。
「いかがですかな我が社は」
「これほど大規模な工場とは…我が国の東京や大阪の砲兵工廠と同等、いやそれ以上かもしれませんな」
「閣下にお褒め頂けるとは光栄の至り…ところで実は弊社でも駐退復座機付きの野砲は作っているのですよ。しかも、あのリマイヨ大尉が設計に関わっておりまして…」
「なんと、あのリマイヨ大尉が」
自ら案内役を買って出たFAMH社長は有坂の世辞に対し、上機嫌に応じた後にすかさず自社製品のアピールを始めた。
その言葉に有坂は驚いた。リマイヨ大尉といえばM1897 75㎜野砲の設計にも関わった逸材だ。そのリマイヨ大尉が関わった速射砲があるとは…しかし、これまでその存在を聞いたこともなかった。
「しかも、今日は丁度その基礎設計を行なった方が来られていましてな、いやはや閣下は運がよろしい」
「それは是非お目にかかりたいものですな。失礼ですがその方の名は」
「マヌエル-モンドラゴン、メキシコ陸軍の砲兵将校です」
モンドラゴンもまた有坂と同じく銃器や火砲の設計に長けた人物だった。後に世界初の半自動小銃であるモンドラゴンM1908を開発した事からもその才能はわかる。
しかし、彼の祖国メキシコは工業的基盤に乏しく彼の設計した野砲もFAMHにて生産を受け持ってもらっているのが現状だった。それがサン-シャモン=モンドラゴン野砲だった。
その後、有坂はモンドラゴンと意気投合し、2人はそれぞれ祖国の工業力不足や大国の脅威などについて論じた。2人はこの交流を通じて終生の友となった。
有坂は帰国後、モンドラゴンの設計したサン-シャモン=モンドラゴン野砲をもとに新野砲を作り上げ、有坂砲と呼ばれた31年式速射野砲にちなんで新有坂砲とあだ名される事になる。