第10話 製鉄所計画始動
1902年2月2日 フランス共和国 ブローニュ
デルカッセとの調印式を終えたフランス公使本野一郎はブローニュにある豪邸を訪れていた。
「ムッシュモトノ、おめでとう。これで我がフランスと君の祖国は同盟国だ。約束通り融資は行おう」
「ありがとうございます。カーンさん、大隈総理もこれで喜びます」
アルベール-カーン。
本野と話すこの人物こそ、この豪邸の持ち主でありフランス有数の実業家にして銀行家だった。
貧しいユダヤ系フランス人の家庭に生まれたカーンは南アフリカでダイヤモンド鉱山を発見して巨万の富を築き、それを元手に銀行業を始めた。
カーンは日本に強く興味を持っており自身の資金で日本からの留学生を募るなどしており、駐仏公使の本野とは家族ぐるみで交流があった。そのため本野は"ある計画"のための融資をカーンに持ち掛け、カーンは日本とフランスが同盟ないし準同盟といえる間柄になること、との条件で応じた。
カーンはユダヤ系であり、そのことから同盟国でもない国への多額の融資はフランス国内で要らぬ勘繰りを受けるかもしれなかったからだ。ドレフュス事件の後だけにカーンは慎重だった。
こうしてカーンの経営するグドー銀行から日本に対して巨額の融資が行われる事になった。
1902年2月3日 大日本帝国 東京
「フランスとの協商で取りあえずロシアを引きさがらせる事はできた。取りあえずこれでロシアとの衝突という最悪の事態は回避できた。だがそれ以上に大きいのはこの融資だな」
大日本帝国内閣総理大臣大隈重信は日仏協商の調印の知らせと共に送られてきた電報を見つつそう言った。
元々、日本国内では朝鮮での鉄道敷設問題でロシアとの関係が悪化する中、イギリスとの同盟論が主流であり、大隈としてもイギリスとの同盟を模索していた。
しかしそれはあくまでも日本側の事情に過ぎなかった。
イギリスでは未だ実力が未知数な日本よりも清国をその同盟国に、と考える見方が優勢だった。
清国では将来的な国威発揚のために多数の戦艦を含む建艦計画を丁汝昌海軍大臣が中心となって計画しており、イギリスの軍需企業は清国からの艦艇発注に大きな期待を寄せていた。
今のところは満州方面での陸軍の増強を優先しているため、装甲巡洋艦程度の発注に留まっているが油断はできなかった。
無論日本としても、こうした清国の動きは座視できずイギリス、フランス、アメリカなどに艦艇を発注した他、国産化の努力も続けられた。こうした海軍の急速な拡張に伴い海軍将校が不足する事態となったため陸軍から一時的に人員が移籍される事とされた、このことに関しては陸海軍双方から反対があったものの第二次台湾出兵によって陸海軍の発言力は落ちる一方であり、軍事に疎い政党政治家の思い付きのような提案が採用される事となった。
これは、政治に振り回される帝国陸海軍という後年よく見られる悪しき慣行の始まりともいわれる事になる。
人材不足こそ解消されたが、どうしても解決できない問題があった。それは日本の鉄鋼生産能力だった。現状では日本の鉄鋼生産能力は足りていなかったが、かといって大規模な鉄鋼生産に必要な大規模製鉄所を作るための資金はなかった。
それが、今解決されようとしていた。後年、八幡製鉄所と呼ばれる事になる製鉄所の建設計画が始動し始めた瞬間だった。
こうして、後に日清建艦競争と呼ばれる海軍拡張競争の準備は整いつつあった。